ルーマンの思い出


 ルーマンの自宅を訪れたのは、1994年10月15日、秋の陽射しのまだ柔らかい午後だった。ビーレフェルト市の南、エーリングハウゼンのマリアンネ・ヴェーバー通りの奥まった場所に、広い庭地をもつ彼の家はあった。ビーレフェルトの西部を南北に走るトイトブルガー・ヴァルトと呼ばれる森林丘陵地帯のふもとである。

 「こちらの方がいいかな」と案内された庭先のベランダは、暖かな陽射しの中で、お茶を飲みながら話をするのにもってこいの場所である。屋根の庇が、夏は陽射しをさえぎり、冬は陽射しが入る長さに張り出していると、話は家の説明から始まった。

 広い庭地は、子供が家を建ててもいいように、はじめから二軒分の敷地を買ったとのこと。「あの辺の植え込みの木は、この家を造ったときに、妻と二人で植えたものだが・・・」という話の時だけ、ルーマンの目がふと遠くを見やるふうになった。その後まもなく、彼は妻を亡くしている。

 ずいぶんと沢山の話をしたような気がする。ルーマンのシステム理論のこと、ちょうど翻訳をしたノルベルト・エリアスのこと、さらにはコンピュータ・ネットワークの社会的影響にまで、話はおよんだ。座持ちのいいルーマンは、こちらのたどたどしいドイツ語の質問に根気よくつきあい、一の質問に十の話で答える。

 システム理論の話は、当時まだこちらが理解不足、暗中模索の状態で、せっかくの話があまり実にならなかったのが悔やまれる。一つ覚えているのは、彼のシステム理論のアイデアの源泉になっているマトゥラーナやフォン・フェルスターが、こと社会システムとなると、人間を単位要素としたシステムとして捉えてしまうことへの批判である。マトゥラーナやフォン・フェルスターにしてみれば、社会システムの単位要素がコミュニケーションであるという考え方が、どうしても理解できない、あるいは承服できないらしいが。

 エリアスは、1980年代に、晩年の一時期をビーレフェルトの研究員としてすごした。当時のルーマンの論文、とくに『社会構造と意味論』では、しばしばエリアスが脚注にでてくるが、二人の学問的関係は、比較的疎遠だったという。エリアスは、ルーマンをパーソンズの亜流の機能主義者とみなし、ルーマンは、エリアスのフランス近代史の解釈を承服できなかったからである。

 コンピュータ・ネットワークの話は、コンピュータを使わないルーマンが、自分のメディア論との関係で、新しい情報テクノロジーをどう評価しているのか、聞いてみたかった。あの莫大な量の論文原稿をすべてタイプ打ちして、それを秘書が全部ワープロに入力し直す、という執筆スタイルを変えないルーマン。弟子たちは、ときどき酒の肴に、「ルーマンのコンピュータリゼーション」の方法を検討するほどである。もちろん彼とて、新しいテクノロジーの重要性は、十分に認識しているようだった。印象に残っているのは、ヴァーチャル・リアリティの話で、「身体に電極をつないだヴァーチャル・セックスよりも、アクチュアルな方がいいに決まっているでしょう」と、大先生、悪戯っぽくのたもうた。

 一段落したところで、「散歩に行きましょう」と誘われた。トイトブルガー・ヴァルトは、中を散策路が縦横に走っている。ルーマンも、森と散歩が大好きのドイツ人の例にもれず、日課のようによく散歩に出るらしい。森とはいえ、小高い丘陵の上からは、木々のあいだをとおして周囲の田園風景がよく見える。当時はまだ健脚のルーマンと、ゆうに一時間以上は歩いた。

 家に戻ると、まもなく早い秋の夕暮れが訪れ、暗くなった居間で、なおも話は続いた。ほとんど顔が見えなくなって、ようやく明かりをつけた頃、玄関から賑やかな声がする。小さな娘を連れた息子夫婦と、大きな二匹の犬のご帰還である。「これが我が家の日常です」というルーマン。家に生活のにおいが漂った瞬間だった。

 辞去するまぎわ、おずおずとカメラを取り出して、「記念に写真を」と頼むと、ルーマンが息子の奥さんを呼んでくれた。