社会システムのモダニティ

──パーソンズとルーマン──

徳安 彰

1.問題設定

 本報告では,パーソンズの社会システム理論における社会システムの近代的特性についての考え方を,ルーマンの社会システム理論を準拠点としながら比較検討する。とりわけ,グローバリゼーションや多文化主義といった近年の動向に留意しながら,国民社会/世界社会,機能的分化,包摂,無限定性/限定性,普遍主義/個別主義といった概念をもちいて,パーソンズが描いた近代社会と個人の存在様式の特徴を定式化し,その意義と限界を明らかにする。

2.国民社会/世界社会

 社会学理論において,社会(society)と社会システム(social system)の区別を導入したのはパーソンズやレヴィなどの機能主義者だった。その場合,社会とは自給自足的で包括的なまとまりを持つ単位であるとされ,社会システムとは社会の中の特定の機能にかかわる単位であるとされた(Parsons, 1951, p.19; 1971, p.8)。パーソンズは,現代における社会は「政治的に組織化された」ものであるとして,その具体的なレファレントを国民国家の境界によって区切られた国民社会にとった(Parsons, 1971, p.10)。

 それ以後の社会学の議論においても,社会を国民社会と同一視する傾向は,基本的に変わっていない。たとえばスメルサーは,現代社会学の問題領域の最もマクロな部分をグローバル社会学と名づけているが,議論の内容をみると,諸国民社会の存在を前提とした国際化という概念をもちいている(Smelser, 1997, p.73ff.)。また,領域的な国民社会からグローバルな世界社会へという移行の議論について,たしかに,領域的な国民社会はもはや自給自足的な閉じたシステムとしては存立しえず,他の国民社会との相互依存関係が緊密化してきてはいるが,世界社会といえるほどの統合されたシステムはまだ成立していない,という主張もしばしばなされる(富永, 1996, p.174ff.)。

 もちろんパーソンズも,国民社会を絶対の境界をもつ孤立したシステムとして捉えていたわけではない。一方で国民社会が複数存在していて,さまざまな国際関係という「超社会的なsupersocietal」社会システムにかかわっていること,他方で移民の親族システムやカトリック教会のように,メンバーが複数の国民社会にまたがる「社会横断的なcross-societal」社会システムが存在することを指摘している(Parsons, 1971, p.10)。しかしそれにもかかわらず,社会の単位は国民社会であり,社会の統合機能(I機能)に対応する「社会的共同体societal community」として「ネーションnation」が出現してきたと主張する(Parsons, 1967, P.424ff.)。

 これに対して,個々の国民社会はもはや自足性をもたないから,世界を単一のシステムとしてとらえるべきだとして,早い時期にグローバル社会学の構想を提示したのが,ムーアだった(Moore, 1966)。それをうけて,相互連関する種々の社会システムの包括的なまとまりとしての社会という定義を現代の状況に適用すると,もはや社会の具体的なレファレントになりうるのは世界社会というただ一つの社会だけである,と主張するのがルーマンである(Luhmann, 1975, 1982a)。ルーマンは,要素としてのコミュニケーションのオートポイエティックな再生産システムとして社会システムを定義する。そしてとりわけ,交通手段とコミュニケーション手段の発達が,また緯度・経度や世界標準時の設定による世界空間・世界時間の抽象化・標準化が,今や現実にコミュニケーションを世界規模で接続可能なものにした,という(Luhmann, 1997, p.145ff.)。

3.機能的分化と社会の統合

 パーソンズの場合,国民社会を社会のレファレントにとることは,文化的な価値の統合という考え方と結びついている。AGILのサイバネティックなヒエラルキーの中で,行為システム全体の中では,文化システム(L)によって価値的・理念的に制御された社会システム(I)が統合の機能を果たし,社会システムの内部では,潜在的パターン維持の下位システム(L)によって価値的・理念的に制御された社会的共同体(I)が統合の機能を果たす。

 一方ルーマンによれば,前近代社会のように階層的分化が優位な場合には,社会構造はヒエラルキー的で,中心/周縁あるいは頂点/底辺という図式が妥当性をもち,それに対応して,文化的にも一元的な垂直統合された体系を構想することができた。しかし機能的分化が優位な場合には,社会構造はヘテラルキー的で,分出した機能システムが統合の中心ないし頂点を欠いたまま並存することになり,それに対応して,文化的にも社会の全域に妥当する一元的な意味や価値の体系を構想することができなくなる。

 ルーマンによれば,オートポイエティック・システムとしての社会システムという概念そのものが,システム存続のための統合の必要性を前提としないのであるが,それはさておくとしても,少なくとも機能的分化の優位を承認するかぎりにおいては,たとえ国民社会においても一元的な社会‐文化的統合は論理的に成立しえない。

 さらに,この機能的分化の過程は,グローバリゼーションと平行して進行する。たしかに国民国家は,これまで(現在でもなお)相当に強力な影響力を行使して,国民社会という自足的で包括的なまとまりが成立するかのような観念をはぐんできた。だが,国民国家が指向するヒエラルキー的な垂直統合型の制御は,他の機能システム(たとえば経済,科学,宗教,芸術など)が,それぞれ固有のダイナミズムによってグローバルに拡大していくことによって,しだいに浸食されてきている。ルーマンによれば,国境という国民国家の領域境界は,もはや全体社会の境界ではなく,グローバルな政治システムの環節的に分化した単位としてのシステム境界にすぎない(Luhmann, 1982b)。

4.社会への包摂

 以上は,機能的分化にともなうマクロな社会構造の変化である。これに対して,個々の人間の社会との関係,および個々の人間のアイデンティティの変化はどうか。

 ルーマンによれば,階層的分化が支配的な社会において,社会の部分システムを構成するのは,ヒエラルキー的に分化した階層(たとえば身分やカースト)である。そのような部分システムは,社会的機能/コミュニケーションのテーマという観点からみると,無限定的であり個別主義的である。人間は,どれか一つの階層のみに,つまりどれか一つの部分システムのみに属する。その意味で,人間は自分が属する階層という部分システムに包摂され,そのかぎりにおいて全体社会に包摂される。人間の個性やアイデンティティは,基本的には自分の属する階層によって,つまり属性原理によって規定される。

 これに対して,機能的分化が支配的な社会において,社会の部分システムを構成するのは,ヘテラルキー的に分化した機能システム(たとえば経済,政治,科学,宗教など)である。そのような部分システムは,社会的機能/コミュニケーションのテーマという観点からみると,限定的であり普遍的である。人間は,複数の機能システムに関与するようになるが,どれか一つの機能システムのみに属することはできない。機能的分化の進展は,人間をまるごと包摂する部分システムの存立を不可能にする。その意味で,人間は全体社会から排斥され疎外される。人間の個性やアイデンティティは,もはや特定の部分システムへの帰属によっては規定されず,業績原理によってまさしく自己言及的に規定される。ここに,近代的個人の観念が成立する(Luhmann, 1989, 1995)。

 近代的個人は,一方で完全な個としての独自性を主張するかぎりにおいて,他のすべての人間と差異化された存在であり,もう一方でいかなる具体的な集合体にも包摂されないかぎりにおいて,他のすべての人間と共通の普遍的・類的存在である。どちらの側面をとっても,世界社会を前提として論理的帰結を考えてみると,他の集合体と差異化された集合的アイデンティティの供給源としての文化的伝統からは,遊離してしまうことになる。だが現実には,人間はいわば真空の中でアイデンティティを形成することはありえないし,またそうすることもできないように思われる。近代においては,集合的アイデンティティの供給源として,人間を包摂するかのような擬制としての機能を果たしていたのが,国民社会ないし国民国家であった。

 パーソンズは,社会的共同体としてネーションを想定し,そのメンバーシップを「市民としての資格citizenship」と規定する。歴史的に見ると,君主に対する「臣民subject」から市民への転換は,市民としての諸権利の法的保証,公的事項(とくに政治)への参加の制度化,市民の「福祉」の保証という段階をへて進行する(Parsons, 1971, p.21f.)。その特性は,アソシエーション的なメンバーシップ,すなわち自発的で属性的基準から独立したメンバーシップにある(Parsons, 1967, p.424f.)。近代初期においては,宗教,民族,領域の3要素がナショナリティと一致するかたちで強固な連帯の基礎を形成していたが,3つの要素はしだいに分岐し,むしろ市民としての資格がナショナルな連帯の基礎となっていく(Parsons, 1971, p.22)。このようにパーソンズにおいては,近代における人間は,普遍主義的に規定される市民としての資格において,社会的共同体としてのネーションをもつ国民社会に包摂されるものとして考えられていた。

5.多元性の時代

 だが,パーソンズ自身が指摘しているように,市民としての資格とナショナリティの制度化は,多元主義の諸基礎が先鋭に構造化された分裂におちいってしまうと,社会的共同体を弱めることがありうる(Parsons, 1971, p.22)。国民国家の境界が相対化され,国民社会という単位が自足的・統合的なものでなくなるにつれて,パーソンズの懸念は現実のものになってくるように思われる。

 一方で,とりわけ民族的,宗教的マイノリティを中心に,国民国家の内部に,あるいは国民国家の境界を超えて,文化の多様性と独自性を主張する動きが顕在化してくる。彼らは,多くの場合,限定的かつ普遍主義的という点で,自分たちの民族的,宗教的属性と無関係に,すべての機能システムに平等にアクセスできるはずの社会の中で,まさにその属性によって差別され,不平等を強いられた存在である。彼らは,普遍主義的な国民社会への包摂のイデオロギーがもつ欺瞞性を暴露し,個別主義的な排斥の実態を明るみに出す。そして,その事態に対して普遍主義の徹底を求めるのではなく,個別主義的に独自の文化的伝統にもとづいた集合的アイデンティティの承認を求める。ロバートソンが,普遍主義の個別化と個別主義の普遍化の相互浸透と呼んだ過程が,これである(Robertson, 1992, p.100)。パーソンズは,アメリカ社会における黒人問題を取り上げて,彼らが完全な市民としての資格を得ることによって,普遍主義的な国民社会への包摂が実現する可能性について論じたのだが(Parsons, 1967, p.422ff.),現実はパーソンズの論じたように進行ししているとは必ずしもいえない。

 他方,これとは異なる動きも進展する。世界市民やコスモポリタンという概念は,普遍的・類的存在としての人間の側面を指向し,欧米に固有の普遍主義(その意味では個別主義)の産物であるという批判を浴びながらも,依然として命脈を保っている。これに対して,現在多くみられるのは,より限定的なかたちで複数の集合体に関与しながら,個としてのアイデンティティを模索する動きである。それは,「現実の」社会空間の中で,限定的な目的をもついくつもの運動組織に関与するというかたちをとることもあれば,インターネットという「仮想の」社会空間の中で,いくつものサイバーコミュニティに関与するというかたちをとることもある。その場合,集合体への関与は一般に一時的であり,個人は参入・撤退の自由をもつ。逆にいえば,個人は遊牧民のように,そのつどの現在において関心のある問題にかかわるかぎりにおいて,一時的に集合体に関与するにすぎない(Melucci, 1989)。これらの集合体は,原理的にも技術的にも国民国家の境界とは無関係に,それを軽々と超えて形成されうる。そこでは,特定の集合体への包摂を前提とした集合的アイデンティティや,その基礎となる特定の文化的伝統への指向性はみられない。また,個人は関与する集合体ごとに異なる「顔」をみせることもできるから,個としての統合的アイデンティティへの指向性がみられず,むしろポストモダン的なモザイク型アイデンティティやその時間的組み換えこそがよしとされる場合さえある。

 このようにみてくると,パーソンズの描いた近代社会像は,グローバリゼーションや多文化主義の中で,一定の限界をもっていたといわざるをえない。

文献

Luhmann, Niklas, 1975, " Die Weltgesellschaft", in: N. Luhmann, Soziologische Aufklaeung 2, Westdeutscher Verlag: 51-71

Luhmann, Niklas, 1982a, "The world society as a social system", International Journal of General Systems, Vol.8, 131-138

Luhmann, Niklas, 1982b, "Territorial borders as system boundaries", in: R. Strassoldo/G. Delli Zotti(eds.), Cooperation and Conflict in Border Areas, Franco Angeli Editore: 235-244

Luhmann, Niklas, 1989, "Individuum, Individualitaet, Individualismus", in: N. Luhmann, Gesellschaftsstruktur und Semantik: Studien zur Wissenssoziologie der modernen Gesellschaft Bd.3, Suhrkamp

Luhmann, Niklas, 1995, "Inklusion und Exklusion", in: N. Luhmann, Soziologische Aufklaeung 6, Westdeutscher Verlag: 237-264

Luhmann, Niklas, 1997, Die Gesellschaft der Gesellschaft, Suhrkamp Verlag

Melucci, Alberto, 1989, Nomads of the Present, Hutchinson Radius〔山之内靖他訳『現在に生きる遊牧民』岩波書店, 1997年〕

Moore, Wilbert E., 1966, "Global sociology: the world as a singular system", American Journal of Sociology, Vol.71, No.5: 475-482

Parsons, Talcott, 1951, The Social System, The Free Press〔佐藤勉訳『社会体系論』青木書店,1974年〕

Parsons, Talcott, 1967, Sociological Theory and Modern Society, The Free Press

Parsons, Talcott, 1971, The System of Modern Societies, Prentice-Hall

Parsons, Talcott, 1977, Social Systems and the Evolution of Action Theory, The Free Press

Robertson, Roland, 1992, Globalization: Social Theory and Global Culture, SAGE Publications〔阿部美哉訳『グローバリゼーション──地球文化の社会理論』東京大学出版会, 1997年〕

Smelser, Neil J., 1997, Problematics of Sociology: The Georg Simmel Lectures 1995, University of California Press

富永健一, 1996, 『近代化の理論──近代化における西洋と東洋』, 講談社学術文庫