社会学の教室から

徳安 彰

 東京の大学で、社会学を講じている。

 社会学という学問、どこか正体不明のところがあるのだが、とりあえず、複数の人間が関係する秩序の成り立ちを問う学問、ということにしておこう。友人や恋人など二人の関係から、家族、学校、会社、市民団体などを経て、地域社会、国家社会、はては世界社会まで、あらゆる規模の関係の秩序の成り立ちと変化の仕方について研究する。それが、社会学の(すべてではないにせよ)メインテーマだ。

 この社会学、生まれは19世紀前半のヨーロッパ、名付け親はフランスのオーギュスト・コントという学者だ。当時のヨーロッパ社会は、イギリスから始まった産業革命や、フランス革命に代表される市民革命をはじめとして、未曾有の変動に見舞われていた。「一体われわれの社会は、これからどうなっていくのか」。この問いが社会学の出発点だった、と言っていい。

 もう少し詳しく言うと、社会の変動期には、それまでの古い秩序が大きく崩れ、さりとて新しい秩序はまだ確立されない(場合によっては、その見通しさえ立たない)、という非常に不安定な状況が起こる。19世紀ヨーロッパについていえば、古い秩序とは、一方で人間性を抑圧し、進歩を妨げるものだった。人々は、その意味で、古い秩序の崩壊と新しい時代の到来を歓迎した。だが新しい時代は、進歩・発展といえば聞こえはいいが、どこまでも変動して落ち着くことのない社会状態をもたらした。だから、社会学の出発点となった問いには、期待と不安が相半ばしている。

 ひるがえって、20世紀末の今。われわれはあらためて、同じ問いに直面している。「一体われわれの社会は、これからどうなっていくのか」と。夫婦や家族のあり方、男と女の役割、学校と教育の制度、会社や労働組合の組織、そして地域社会や国家など、これまで当たり前に思われてきた秩序が、見る見るうちに変わろうとしている。政治・経済ブロックの境界の流動化、民族・人種紛争の激化、宗教の原理主義化、環境・人口問題の深刻化、情報や生命科学の分野でのテクノロジー暴走の危険性など、噴出する問題群は社会のありとあらゆる領域におよび、しかも地球規模に広がっていく。

 この途方に暮れてしまいそうな混沌とした状況、とりわけ秩序を支える道徳や倫理といった規範的要素が混乱している状況を、フランスの社会学者エミール・デュルケムは、かつてアノミーと名づけた。少年犯罪の増加や学校の荒廃から、官僚組織や大企業の汚職と腐敗にいたるまで、今の日本の社会問題の底には、このアノミー状況がある。民族紛争や原理主義的テロリズムの頻発を見れば、世界中で通用する普遍道徳など、およそ確立されているとは言えず、ここにもグローバルなアノミー状況がある。

 では、新しい普遍的な道徳や倫理の確立は可能か。困ったことに、この問題の解決は容易ではない。それは、こういうことだ。

 およそ、道徳や倫理といった秩序の規範的要素は、「何でもあり」という無制限の自由度を認めない限りにおいて、制約的である。別の言い方をすれば、秩序の規範的要素は、人や集団や組織の行動の可能な選択肢について、妥当なものと妥当でないもののあいだに線引きをし、妥当でないものを禁止する。どんなやり方であれ、およそこの線引きなしに、規範は成立しない。ところが、その線引きの絶対的な根拠を求めようとすると、それが見つからないのだ。

 そんなはずはない、と敬虔な宗教家なら言うだろう。その人にとっては、神が定めたもうたものが絶対だからである。だが、なぜその神は絶対なのか。絶対であると信じるから、絶対であるにすぎない。その神を信じるという、不合理で無根拠な選択がまず最初にあって、それが絶対性を保証するという、逆説的な話なのだ。いまどき、神や仏でもあるまいに、と思われるかもしれない。しかし、考えてもみよ。すべての線引き、すべての選択は、およそその絶対的な根拠を求めようとすると、この神の話と同じになってしまうではないか。たかだか、神のかわりに、もっと貧弱な人間の理性やその産物にすぎない科学が、引っぱり出されるにすぎない。あるいは、自然や民族や人間性といったさまざまな神話が。

 こんなことを言っている社会学とは、したがって両義的な学問だ。秩序の成り立ちを問うと言いながら、そうすることによって、秩序を正当化したり、権威づけたりするのではなく、むしろその根拠を脱神話化してしまうからである。

 学生諸君は、こういう話ばかり聞かされると、フラストレーションを起こすようだ。そんな社会学なんかやったって、ちっとも社会をよくするのに役に立たないじゃないか。アノミーなんて概念を作っておいて、秩序を回復させるんじゃなくて、逆にアノミーを助長するようなことばかり言ってるじゃないか。では、逆に聞こう。君たちの言うよい社会とは何か。なぜ、それはよい社会と言えるのか。

 家族、学校、会社、地域社会、国家社会、世界社会・・・どんなレベルでもいいのだが、絶対に正しい秩序など、どこにもないのである。さまざまな歴史的条件のもとで、さまざまな人々の意志や欲求が交錯する中で、「たまたま」ある秩序がよいものとして選びとられ、正当性を獲得するにすぎないのだ。そうした条件や状況を、できる限り明らかにしていくこと、これが秩序の成り立ちを問うという作業の本質である。そんな社会学は、揺るぎない秩序を欲する人々の意には沿わず、彼らの生活の足元を脅かし続けるかもしれないが、その一方で、あらゆる絶対主義の暴力的な支配に対抗する、数少ない砦でもあるのだ。

『khaos』(久留米大学附設高等学校)1998年:33-34