システム理論の構成主義的意味論

徳安 彰

1.問題設定

 本報告は、システム理論における「構成主義constructivism」の展開過程を簡単に紹介しつつ、構成主義を社会システム理論に導入したN・ルーマンの説を中心に構成主義の概念枠組を記述し、それにもとづいて構成主義の認識論的含意と理論的含意を考察する。とりわけ理論的含意については、いくつかの実践的問題との関連性を例示する。

2.構成主義の展開

 システム理論(あるいはサイバネティクス)の展開の中で、1960年代から構成主義とよばれる考え方が現れた。1980年代になると、構成主義はシステムの意味構成のメカニズムにかんする概念枠組を提供するとともに、認識論ないし観測論という一種のメタレベルでの方法的枠組を提供するようになった。

 構成主義の源泉としてよく名前があげられるのは、マトゥラーナやヴァレーラのオートポイエーシス理論、フォン・フェルスターの二次のサイバネティクス、ピアジェの発達心理学などである。これらは、経験的な神経生理学や心理学からでてきた理論であり、今日ではしばしば認知科学と総称される領域の一部を構成している。また哲学的な源泉としては、カントからフッサールにいたる観念論哲学の伝統があげられる。

3.構成主義の概念枠組

 システム理論(ないしサイバネティクス)における構成主義は、知覚にかんする実験や神経生理学の知見からはじまった。たとえばフォン・フェルスターは、「現実の構成について」という論文の中で、「われわれの知覚する環境は、われわれの発明である」というテーゼを提示し、システムの認知=意味構成が再帰的作動の閉じたサイクルの中で、自己言及的に行われることを示した。

 いうまでもないことだが、これは、システムが環境からの刺激ないし入力を(たとえば熱力学的に閉じたシステムと同じ意味で)まったく受けつけない、ということではない。刺激ないし入力はシステムの作動に一種の撹乱をあたえはするが、けっしてシステムの作動を因果的に規定しない、ということである。マトゥラーナの用語でいえば、システムは環境との構造的カップリングの中で認知=意味構成を行う、ということになる。

 意味構成とは、スペンサー‐ブラウンにならっていえば、区別をすることである。その第一歩は、認識をする主体としてのシステムとその環境の区別(自他分節)にある。認識をする主体として自己を環境から区別したシステムは、さらなる区別を用いて、みずからの意味空間を構成する。構成主義においては、一般に区別を用いることなく世界を統一態として認識することは、認識の定義上ありえない。その意味で、システムが用いる区別は、システム自体にとっては一種の盲点となり、これを認識するためには別の区別を用いなければならない。それは、二次の観察あるいは二次のサイバネティクスとよばれるが、それが認識論的により上位の優位な立場というわけではない。

 ところで、知覚心理学や神経生理学においては、このシステムは個体としての生物である、とされるが、社会学者のルーマンは、社会学における集合主義(ないしデュルケム的)伝統を継承し、システム概念をより抽象化することによって、社会システムもまた認識をする主体になりうる、という議論を展開する。機能的分化が進展した現代社会では、個々の機能システムが他の機能システムを環境(全体社会の中の内部環境)とするシステムとして、それぞれ固有の意味構成を行う、という。

 さらに、これらの機能システムのあいだの全体社会の中での関係は、ヒエラルキー的というよりヘテラルキー的なので、社会全体として統一的な意味構成を行う頂点や中心の位置を占める部分システムはもはや存在しない。全体社会としては、多次元的に錯綜した意味構成の構造的カップリングが存在するだけである。このことは同時に、全体システムの中で、他の部分を統一的に制御できるような部分システムが存在しない、ということでもある。

4.構成主義の認識論的含意

 システム理論(ないしサイバネティクス)における構成主義の認識論上の正当性は、しばしばそれが認知や知覚にかんする経験的研究の成果である点に求められる。つまり、科学的認識の正当性をメタレベルの知識としての哲学に求めるのではない。その点で、これはクワインのいう自然化された認識論にあたる。

 また、構成主義の概念枠組を認識する主体としてのシステムに適用すると、作動上の閉じなどの条件から、一種の独我論になる可能性をはらんでいる。だが、観察主体となるシステムを個々の人間(とくに科学者)と考える場合にも、フォン・フェルスターのいうように、「語られることはすべて、観察者によって語られる」と同時に「語られることはすべて、観察者に対して語られる」から、構成される現実はつねに社会的なものである(現実=共同体)し、各人は自分の発言に責任をもつべきだ、という考えがなりたつ。認識は共同言及である、といってもよい。

 だが、認識の基礎を個々の人間におくと、つねに相互主観性の問題が生じる。そこで、ルーマンのいうように社会システム自体を意味構成システムと考えれば、古典的な主体(主観)/客体(客観)という区別にともなう難点をも回避することができる。いずれにしても、それは一種の社会化された認識論である。

5.構成主義の理論的含意

 構成主義的な立場をとると、システムの意味構成やシステム間の制御関係について、いくつもの興味深い問題がでてくる。たとえば、個人の心理システムのレベルでいえば、精神療法や教育において、精神科医や教師は患者や生徒の意味構成にどのような影響を与えているのか。一方的な制御がなりたたないのは明らかである。

 同様に考えると、組織のレベルでは、コンサルティングを行うエージェントは組織自体とどういう関係にあるのか、と問うことができる。機能システムのレベルでは、たとえば政治システムが経済政策や教育政策を実施することの意味について、問うことができる。そして全体システムのレベルでは、環境問題はどのようなエージェントによってどのように認識されるのか、といった問題がでてくる。

■この報告の成果は、次の論文にまとめられている。

徳安 彰、1997年、「システム理論の構成主義的意味論」、『社会・経済システム』第16号:115-120