グローバリゼーションの中の意味構成の多元化

──機能的分化と多元的文化──

徳安 彰

1.問題設定

 本報告では、ルーマンの世界社会論を参照しながら、グローバリゼーションの中の意味構成の多元化を、社会システム理論の立場からどのように定式化できるか、という問題を検討する。

2.国民社会から世界社会へ

 社会システム理論において、社会(society)と社会システム(social system)の区別を導入したのはパーソンズだった。その場合、社会とは自給自足的で包括的なまとまりを持つ単位であるとされ、社会システムとは社会の中の特定の機能にかかわる単位であるとされた。

 パーソンズは、現代における社会の具体的なレファレントを、国民国家の境界によって区切られた国民社会にとり、それ以後の社会学の議論においても、社会を国民社会と同一視する傾向は、基本的に変わっていない。早くからグローバル社会学の構想を提示したウィルバート・ムーアにしても、世界システム論を展開したイマニュエル・ウォーラーステインにしても、世界を諸国民社会からなる一つのシステムとみなそうとしたのであって、世界規模の一つの社会とみなそうとしたのではない。

 これに対して、相互連関する種々の社会システムの包括的なまとまりとしての社会という定義を現代の状況に適用すると、もはや社会の具体的なレファレントになりうるのは世界社会というただ一つの社会だけである、と主張するのがニクラス・ルーマンである。ルーマンは、要素としてのコミュニケーションのオートポイエティックな再生産システムとして社会システムを定義する。そしてとりわけ、交通手段とコミュニケーション手段の発達が、また緯度・経度や世界標準時の設定による世界空間・世界時間の抽象化・標準化が、今や現実にコミュニケーションを世界規模で接続可能なものにした、という。

3.機能的分化

 領域的な国民社会からグローバルな世界社会へという移行の議論について、たしかに領域的な国民社会はもはや自給自足的な閉じたシステムとしては存立し得ず、他の国民社会との相互依存関係が緊密化してきてはいるが、世界社会といえるほどの統合されたシステムはまだ成立していない、という主張がしばしばなされる。だが、そもそも社会の統合とは何であろうか。

 ルーマンによれば、近代社会の構造的特質は機能的分化の優位にある。前近代社会のように階層的分化が優位な場合には、社会構造はヒエラルキー的で、中心/周縁あるいは頂点/底辺という図式が妥当性を持ち、それに対応して、文化的にも一元的な垂直統合された体系を構想することができた。しかし機能的分化が優位な場合には、社会構造はヘテラルキー的で、分出した機能システムが統合の中心ないし頂点を欠いたまま並存することになり、それに対応して、文化的にも社会の全域に妥当する一元的な意味や価値の体系を構想することができなくなる。

 ルーマンによれば、オートポイエティック・システムとしての社会システムという概念そのものが、システム存続のための統合の必要性を前提としないのであるが、それはさておくとしても、少なくとも機能的分化の優位を承認する限りにおいては、たとえ国民社会においても社会‐文化的統合は論理的に成立し得ない。たしかに国民国家は、相当に強力な影響力を行使して、国民社会という自足的で包括的な単位が成立するかのような観念を育んできたが、その垂直統合の力は他の機能システム(たとえば経済、科学、宗教、芸術など)の固有のダイナミズムによるグローバリゼーションの進展によってしだいに浸食されてきた。政治システムそのものを見ても、国民国家はグローバルな政治システムの環節的に分化した単位となっており、そのグローバルな政治システムの新たなエージェントとしてのNGOの登場なども、国民国家の役割を相対化させる傾向にある。

4.多元的文化とアイデンティティ

 機能的分化の進展は、個人をまるごと包摂するシステムの存立を不可能にする。個人は、あらゆる機能システムから排除され、まさしく個人としてのアイデンティティの確立を強制される。だが、人間はいわば真空の中でアイデンティティを形成することはあり得ないし、またそうすることもできない。アイデンティティの帰属先として、何らかの文化的伝統が求めれられる。近代においてはそのような帰属先を供給し、人間を包摂するかのような擬制としての機能を果たしていたのが、国民国家であった。

 だが、国民国家の境界が相対化され、国民社会という単位が自足的・統合的なものでなくなるにつれて、文化の境界もしだいに曖昧になってくる。一方で、とりわけ民族的、宗教的マイノリティを中心に、国民国家の内部に文化の多様性を主張する動きが顕在化してくる。国民文化や国民性という観念は、今や多文化主義の台頭によってその意義を失いつつある。他方で、国民国家の境界を越えた文化的単位も現れてくる。それには、民族や宗教といった「伝統的」な形態をとることもあれば、世界市民やコスモポリタンという概念に見られるような「近代的」形態をとることもある。

 これらはいずれも、機能的分化の進展と国民国家の相対化によってもたらされたアイデンティティの危機、文化的ホームレスの恐怖に対する反応として捉えることができよう。ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト、文化/文明、生活世界/システムといった区別に基づく社会(あるいは世界)のシステム化批判も、同様である。

5.収斂と分岐

 世界社会の概念は、このように機能的にも意味的にも多元化した社会を肯定するものであって、世界中の地域の差異が収斂し均質化し、その限りにおいて統合が進むことを含意しない。むしろ、機能的分化のグローバルな進展は、地域的に存在していた差異を解消するどころか、拡大する働きをすることも多い。

 かつて、とりわけ近代化論、産業化論の文脈の中で、収斂か分岐かという議論がなされたときには、世界には相対的に独立した単位としての国民社会の存在が前提とされていた。相対的独立か相互依存か従属かという近代化の条件をめぐる議論も、国民社会の間の関係規定としてなされていた。その意味で、収斂がおころうと分岐がおころうと、国民社会は存立し続けると考えられていた。今や、世界社会論の観点から見ると、機能的分化の進展という条件のもとで、多元的な意味構成の境界形成を含めて、地域的な差異はどのように変化するか、と問わなければならない。

■この報告の成果は、次の論文にまとめられている。

徳安 彰、1998年、「グローバリゼーションの中の意味構成の多元化──機能的分化と多元的文化──」、『社会・経済システム』第17号:27-33