公共性の社会経済システム

──国際公共政策と国民国家──

徳安 彰

1.問題設定

 本報告では、グローバリゼーションの進展による世界社会の形成と、同じくグローバルな規模での機能的分化の進展という2つの趨勢を前提として、国際公共政策の可能性と国民国家の役割について検討する。

2.世界社会

 社会システム理論においては、タルコット・パーソンズ以来、社会と社会システムを区別するのが通例になっている。その場合、社会とは自足的で包括的なまとまりを持つ単位であるとされ、社会システムとは社会の中の特定の機能にかかわる単位であるとされる。従来の社会システム理論においては、社会の具体的なレファレントは、国民国家の境界によって区切られた国民社会にとられてきた。そのため、国際化やグローバリゼーションとは、諸国民社会が社会としてのまとまりを保ちながらも、緊密な相互連関関係(対等な相互依存関係であれ、不平等な支配/従属関係であれ)をとりむすんでいく過程とみなされてきた。

 これに対してニクラス・ルーマンは、さまざまな社会システムの包括的なまとまりとしての社会という定義を現代の状況に適用すると、もはや社会の具体的なレファレントになりうるのは領域的な国民社会ではなく、グローバルな世界社会というただ一つの社会だけであると主張する。ルーマンは、とりわけ交通手段とコミュニケーション手段の発達が、また緯度・経度や世界標準時の設定による世界空間・世界時間の抽象化・標準化が、現実にコミュニケーションを世界規模で接続可能なものにした、という。

3.機能的分化

 ルーマンの社会システム理論において、近代社会の構造的特質として、世界社会の形成とならんで主張されているのが、機能的分化の優位である。前近代社会のように階層的分化が優位な場合には、社会構造はヒエラルキー的で、中心/周縁あるいは頂点/底辺という図式が妥当性を持つ。しかし機能的分化が優位な場合には、社会構造はヘテラルキー的で、分出した機能システムが統合の中心ないし頂点を欠いたまま並存することになる。

 より具体的には、機能的分化の進展にともなって、経済、政治、法、科学、宗教などの機能的部分システムが分出し、それぞれが高度な自律性を有するようになると同時に、社会全体を制御するような部分システムないしエージェントが存在しなくなる。それぞれの部分システムは、自己言及的に作動するオートポイエティック・システムとして、いわば横並び的な存在であるから、特定の部分システムが社会全体の制御を行うためにヒエラルキーの頂点に立つことがなくなるのである。

 さらに、この機能的分化の過程は、グローバリゼーションと平行して進行する。その結果、^政治システムによる社会全体の制御の困難性(国民社会であれ世界社会であれ)、_世界社会における国民国家の役割の相対化、という2つのテーゼが得られる。たしかに国民国家は、これまで(現在でもなお)相当に強力な影響力を行使して、国民社会という自足的で包括的なまとまりが成立するかのような観念を育んできた。だが、国民国家が指向するヒエラルキー的な垂直統合型の制御は、他の機能システムの固有のダイナミズムによるグローバリゼーションの進展によって、しだいに浸食されてきている。さらに、政治システムそのものを見ても、国民国家は依然としてグローバルな政治システムの主要なエージェントではあるが、新たなエージェントとしてのNGOなどの登場によって、その役割が相対化する傾向にある。

4.公共政策の困難性

 以上のような世界社会と機能的分化の概念に基づいて、公共性の問題を考えてみよう。機能的分化の概念から導かれる、政治システムによる社会全体の制御の困難性というテーゼは、すでに国民社会のレベルにおける公共政策の可能性について、悲観的な観測をもたらす。市場メカニズムは万能ではなく、公共政策の必要性が拡大し、現に政府は国土基盤整備のような古典的な政策のみならず、市場介入的な経済政策や福祉政策、さらには環境政策などを実施してきた。しかし、経済的な効率の重視と自由権の尊重は、政治的な公正の重視と社会権の尊重と、予定調和的に両立することはありえない。機能的に分化した現代社会において、政治による社会全体の制御が困難な状況を前提として、適切な公共政策の理論やその裏付けとなる公共哲学が確立しているとはいいがたい。

 世界社会において、この問題はさらに複雑になる。国民社会の政治システムには単一の政府が存在するが、世界社会の政治システムには単一の世界政府は存在しない。国連システムは、部分的に世界政府的な性格を持ってはいるが、その単位は国民国家であって、世界社会の市民ではない。国家を単位とした政治空間で問題になるのは、たとえば国家間の安全保障や国際通貨管理や経済援助であって、世界中の人々の所得の再配分や教育機会の平等ではない。その一方で、地方自治体や各種団体や諸個人が、国家の境界をこえたグローバルなネットワークを形成することができ、NGOと総称されるような組織として、飢餓対策や技術移転や環境保護など、さまざまな公共的活動を行っている。このような組織の存在は、国民社会の内部では、民主主義を草の根から活性化することによって、政府を補完する役割を果たすが、世界社会のレベルでは、むしろ国民国家の政府と肩を並べる政治システムのエージェントとなっていく可能性を秘めている。だが、まさにそのことが、世界社会における公共政策のあり方をより不透明にしていく。

5.公共圏の多元化

 このような状況の中で、公共政策を国際的に決定していく仕組みは、どのようになっていくであろうか。多様なエージェントからなるコミュニケーション空間を公共圏と呼び、公共圏における公共政策の意思決定の妥当性について検討してみよう。国民社会内部の意思決定を考えてみると、国民から権力を付託された正統性を持つ政府が、決定の最終審級としてはたらくわけだが、世界社会における意思決定の場合には、そのような最終審級として権力と正統性を持つ「世界政府」は存在しない。したがって意思決定は、基本的にはグローバルな公共圏における討議と交渉の結果としてのみ可能である。

 国家は、グローバルな公共圏において、依然として有力なエージェントであり続けるだろう。だが、グローバルな意思決定の仕組みとして、民主主義的な方式を妥当と考えた場合、国家代表による意思決定が矛盾をはらんでいることは明らかである。一方で、一国一票の議決方式は、国家間の平等を保証するかに見えて、国家の規模を無視している点で、世界中の人民の代表のウエイトづけとしては不適当であるが、他方で、国家の人口比に基づいて議決権が配分されたとすれば、実際には国家利益のせめぎ合いの中で、人口大国が絶対優位に立つことになる。

 国家と並んで、地方自治体や各種団体などのエージェントからなる公共圏が成長していくだろう。国家が、トータルな社会制御、トータルな公共性を指向するのに対して、それらのエージェントは、むしろ共有可能な個別問題についてグローバルなコミュニケーションと活動の空間を形成しようとするだろう。その意味で、これらのエージェントは、目的別に特化した限定的な中間単位を形成する。たとえば個々のNGOは、飢餓救済や人権擁護や技術協力や環境保護など、一般にきわめて限定された目的を達成するために組織されている。そのためNGOの主張は、一般にきわめて明快かつ先鋭的になり、各国政府に批判的に対峙することも多い。

 つい先日の地球温暖化防止会議に見られるように、各国政府は、少なくとも現状では、自国におけるエコノミーとエコロジーのバランスを考慮せざるをえないが、NGOはその目的からして一方的にエコロジーを、それもグローバルなレベルで優先する主張を行うことができる。各国政府は、たとえ自国の経済システムを完全に制御することはありえないにしても、経済の動向に一定の責任を負わざるをえないから、先進国は産業の活力低下の可能性を考慮し、開発途上国は経済レベル向上のための工業化の権利を主張する(とはいえ、個々の政府はグローバルな経済システムの制御の責任を負うわけではないが)。これに対してNGOは、経済システムの制御の責任を負わないからこそ、エコロジーの優先を主張することができる。

6.決定の正当性と政策の妥当性

 事態は当面、グローバルなレベルでの公共圏の多元化という方向に進んでいくものと考えられる。世界的な文化の多様性を前提にすると、いかに国家の役割が相対化されようとも、グローバルな公共哲学が近い将来に構築されるとは予想しがたいし、ましてやグローバルな公共政策を実施するための最終審級としての世界政府が成立するとは思えない。

 それにもかかわらず、世界社会のレベルで公共政策にかかわる何らかの意思決定を行う場合、その手続きの正当性はどのようにして保証されるだろうか。国家のみをエージェントとした国連システム型の意思決定方式が問題をはらむことは、すでに述べた。世界社会における「世論」とは、各国の主張の集積からなる「国際世論」と同じではない。グローバルな世論はむしろ、多元的な公共圏における多様なエージェントによる討議と交渉の集積として、形成されるべきであろう。そして、特定の公共圏の特定のエージェントが特権的な影響力を行使するのを防ぎ、多元性を維持することの方が、形成された世論の正当性を保証するとしたら、その限りにおいて、世界社会の公共圏の総体はアナーキーな方が望ましい。

 だが、公共圏の多元性が、世界社会における意思決定の正当性を保証するとしても、それがただちに決定された国際公共政策の妥当性を保証するわけではない。たとえば、NGOのメンバーである環境問題専門の科学者の説がどれほど正しいとしても、そのNGOが公共圏における討議の中で他のエージェントを納得させられない限り、「誤った」意思決定がなされてしまう。また国際公共政策は、政策の必然として、実行されてはじめて妥当性が検証されるのであって、世界社会の複雑性にかんがみると、政策の結果をあらかじめ正確に予測することは不可能である。多元的な公共圏を背景にして成立するグローバルな政治システムは、機能的分化が支配的である限り、経済やその他の機能システムを含む世界社会全体を十分に制御することができない。その意味で、たとえ正当な意思決定が行われたとしても、その決定は二重三重の誤謬や失敗のリスクを逃れることができず、あらかじめ妥当性を保証することができない。

7.結語

 以上のことから、われわれが現在なすべきことは、絶対的に妥当するグローバルな公共哲学を確立することでもないし、国際公共政策を決定・実行していく最終審級としての世界政府を構築することでもない。それらは、世界社会の複雑性を強力に縮減し、安定した政策基盤を提供することによって、現代社会のリスクを消し去るかのように見えて、実際にはリスクに対する感受性を鈍らせ、政策の選択肢を狭め、自己反省能力を低下させる可能性が高い。われわれはむしろ、多元的に交錯する不安定でアナーキーな公共圏を維持することによって、多様な選択肢を検討し、選択の結果についての自己反省を次の決定にフィードバックし、増大するリスクに柔軟に対応していく可能性に期待をかけるほかない。