中間単位のシステム論的考察

徳安 彰(法政大学社会学部)

1.問題設定

 本報告では、「中間単位 intermediary unit 」という概念を立て、その意味と社会システム論上の意義について検討する。問題の背景となるのは、機能的分化とグローバリゼーションの同時進行の中で、全体社会としての世界社会の全域で妥当する意味や価値の体系が、現実的に成立していないばかりか、理論的にも成立し得ないという状況である。結果的に生じている意味空間の多元性という現状と今後の展開をどのように捉えるか。また、そのような状況の中で生きる個人のアイデンティティはどのようなものになりうるのか。こうした問題を手がかりに中間単位の意義を考察し、最後に「多次元性 poly-contexturality 」の概念に基づいた多元主義を提案する。

2.中間単位の変容

 社会学の領域では、社会の中での中規模ないしメゾレベルの単位として、伝統的に集団や組織の概念が用いられてきた。ネットワークというのはその新しい変種である。これらはいずれも、個人やミクロな相互行為とマクロな全体社会のあいだに、固有の社会的単位の存在を想定して立てられた概念である。社会システム論においても、たとえばルーマンは、対面的な相互行為と包括的な全体社会の分化の過程で、いわばその中間に組織が創発してきたという図式を立てている。

 だが、従来の社会学においてはしばしば、全体社会の単位が国民社会におかれ、しかもその単位が何らかの統合性を持つと考えられてきた。たとえばパーソンズは、全体社会の統合機能を受け持つ部分を「社会共同体 societal community 」と名づけ、近代においてはネーションが社会共同体にあたるとした。もちろんパーソンズも、一方で国民社会を超えた国際機構の存在を、他方で国民社会を横断する宗教組織(例:カトリック教会)や親族組織(例:移民の親族)の存在を認めていたが、あくまで国民社会のレベルでの社会統合が第一義的であるとみなしていた。しかし概念的な問題として考えてみると、包括的な統合単位としてのネーションに対して、それをはみ出すネーション横断的な組織が存在するのは、論理的な矛盾をきたす。全体社会はもはや世界社会ただ一つしか想定することができず、したがってネーションはもはや societal com-munity ではなく、たかだか social community でしかない。ある意味で、ネーションもまた一つの中間単位になったといえる。

3.意味空間の多元化のパラドックス

 機能的分化とグローバリゼーションの同時進行は、グローバルなレベルでの意味空間の多元化と中間単位の叢生をもたらし、ヒエラルキー的な統合からヘテラルキー的な並存への移行を押し進める。またこのことは、個人の一元的な社会的包摂を不可能にするとともに、アイデンティティの自由な組み替えの可能性を拓く。だがそこには、2つのパラドックスが胚胎している。

 1つは普遍主義/個別主義のパラドックスである。すなわち、一方で普遍主義は、合理的な論理に基づく個人の包摂、あるいは個人の側からのコミットメントを指向する。たとえばパーソンズは、ネーションの連帯の基礎が個別主義的な宗教、民族、領域とナショナリティの一致から、普遍主義的な市民としての資格へと移行してきたという。ネーションが、国内の多様な個別性を抑圧したり消去したりすることなく、何らかの統合を達成しようとすれば、これは必然的な指向である。ハーバーマスのディスコース論は、さらにこれを抽象的に一般化したものと言えよう。だがわれわれは、純粋に合理的に何らかの中間単位にコミットすることができるであろうか。むしろ、連帯、統合、包摂、コミットメントといった現象は、何らかの感情的な(その意味で非合理的な)指向を誘発する、ある種の土着性を必要とするのではないか。そうだとすれば、その土着性は個別性につながるものであり、感情的な指向性はしばしば他の中間単位に対する排他的、敵対的な態度をともなうことになる。

 もう1つのパラドックスは、アイデンティティ形成にかかわる。グローバリゼーションの進展によって、われわれはアイデンティティ形成のための材料をグローバルなストックの中から自由に選択できる可能性を獲得した。それによってアイデンティティは、生得的属性に依存しなくなると同時に、つねに偶有的なものとして脱構築/再構築を行うことが可能になる。モダニストならば、そこから普遍的・合理的な市民ないしコスモポリタンとしてのアイデンティティ形成の可能性を読みとるであろうし、ポスト・モダニストならば、そこからモザイク的ないしハイブリッド的なアイデンティティの可能性を読みとるであろう。だがここでも、感情的な指向を誘発するある種の土着性が欠如している。アイデンティティは、自由を獲得するとともに、根なし、故郷喪失に陥ってしまう。

 意味空間の多元性と中間単位の叢生という現状は、このようなパラドックスによって特徴づけられている。

4.意味空間の多元性と中間単位の機能

 以上のような状況をふまえると、世界社会を一元的に統合しうるような意味体系は成立しえない、と考えるべきである。現実には、ロバートソンが普遍主義の個別化と個別主義の普遍化の相互浸透と定式化したような事態が常態化し、普遍主義指向の市民的集団・組織から個別主義指向の宗教、民族、文化運動の集団/組織にいたるまで、多様な中間単位が叢生している。

 これらの中間単位に関して、バーガー/ルックマンは、近代の多元主義がもたらした意味の危機に対する防衛機制としての中間制度という考え方を提示している。もちろん彼らも、かつて宗教が聖なる天蓋としての機能を果たした時代のような全体社会の統合は不可能であると考えているが、多元主義ウイルスによって意味空間が全面的な危機に陥ることを防ぐために、さまざまな中間制度が免疫システムのような機能を果たす、としている。だが、この議論をより積極的に捉えると、中間単位は意味空間の防衛的機能を果たすというよりは、新しい変異を生み出す進化的な機能を果たすとみなすことができるのではないだろうか。それは、一方で意味空間の多元性をますます増大させるが、それは意味の危機をもたらすというよりは、むしろ社会が不確実なリスクに対応する能力を高める可能性を持つといえよう。

5.多次元的な意味空間へ向けて

 だが、こうした中間単位の議論は、意味空間のたんなる相対主義を主張するものではない。われわれは、むしろ多次元的な多元主義を主張したい。G.ギュンターの提唱した次元および多次元性の概念に基づけば、相対主義やシンクレティズムは単一次元における意味の評価(の放棄・断念)であり、単一次元における意味の絶対評価に固執するファンダメンタリズムとは、指向性において対極にありつつも、単次元的であるという点では同類に属する。われわれの主張する多元主義は、むしろ多次元的な意味の評価を可能にする。それは、ある意味や価値の体系の単次元的な絶対評価を指向するのではなく、どんな主体がどの次元で評価をするのかを問題にする点で、ルーマンのいう2次の観察にあたる。この多次元的な多元主義によってはじめて、中間集団の進化的機能を確保することができるのである。