国家論 文献リスト 





【古典的研究】
●Max Weber (herausgegeben von Johannes Winckelmann), Staatssoziologie. Siziologie der rationalen Staatsanstalt und der modernen politischen Parteien und Parlamente (1956)
「正当な物理的暴力の独占をそれ自体として要求する人間共同体」という国家の定義(『職業としての政治』より)は有名だが、残念ながらヴェーバーは国家に関する社会学的研究を完成させずに終わった。「国家社会学」と題されたこの本は、弟子のヨハネス・ヴィンケルマンがヴェーバーの死後編纂したものである。ヴェーバーがミュンヘン大学で行った「一般国家学と政治学」と題された講義のノートなどを参照に編纂された。実質的内容は、ヴェーバーの既に執筆している文章をつなぎ合わせたもの。構成は〈1.合理的国家の成立、2.正当な暴力行使を独占するアンシュタルト的支配団体としての合理的国家、3.行政としての国家的支配経営――政治的運営と官僚支配、4.政党の本質と組織、5.国家機関としての議会および行政公開性の問題――指導者選択の課題、6.議会主義と民主主義〉。ここでは、専門的官僚制と合理的法律を基礎とした「合理的国家」という近代国家の基本的特性とともに、議会制、政党、民主主義とデマゴギーなどの問題も論じられる。ヴェーバーの国家観には単に有名な「合理的・合法的支配」という統合的側面に加え、国家権力の分割と権力をめぐる闘争という配分的側面も重要であるという点が重要である。ヴィンケルマンが「国家社会学」の中で用いているヴェーバーの既刊論文は『一般経済史』の第4章「合理的国家の成立」、第一次大戦末期にフランクフルト新聞に寄稿した「新秩序ドイツにおける議会と政府」、そして有名な「職業としての政治」である。また、上記6章の後には「支配の社会学」からとった「正当的支配の三つの純粋型」が付け加えられえいる。翻訳あり(『国家の社会学――合理的国家と現代の政党および議会の社会学』、法律文化社、石尾芳久訳)。それにしても、ヴェーバーが自身の「国家社会学」の著作を残さなかったことは、返す返すも残念である。

Allgemeine Staatslehre und Politik (Staatssoziologie). Max Weber-Gesamtausgabe III/7 (2009, J.C.B.Mohr)
ヴェーバーの講義を集めた『ウェバー全著作』第Ⅲ部が、ミュンヘン大学で1920年夏学期にヴェーバーが行った講義『一般国家学と政治(国家社会学)』を収録した。5月11日始まり、夏まで行われるはずの講義は、ヴェーバーの健康上の理由で6月14日で頓挫してしまった。その後ヴェーバーは回復することなく世を去ることになる。本書は、講義を聴講していた学生2名のノートをもとに編纂したものである。講義の内容は、国家の定義から始まり、支配の三類型を中心とした類型論的分析が中心に展開されている。残念ながらあまり新しい展開は感じられないが、カリスマ的支配の現代性(民主主義における指導者の問題として)が特に強調されている。なお、講義のタイトルにある「一般国家学」はヴェーバーの友人の法学者イェリネクが同時期に出版した同名の本のタイトルからとられているという。イェリネクの『一般国家学』は大著だが邦訳がある(学陽書房)。だが、未読。

≪ヴェーバーの国家論をめぐって≫

■ヴェーバーは第一次大戦後の『経済と社会』改定稿(これまで「第1部」とされた部分)の中で「国家社会学」の予告をし、また上記最晩年のミュンヘン大学の講義でも「一般国家学と政治(国家社会学)」を題目にしたりしていたが、結局国家に関するまとまった著作を残さなかった。そのような状況において、彼の全著作の中にちりばめられた国家に関する論考を整理することによって、彼の国家論にある程度は接近することが可能であろう。その中でも重要な部分となると、おそらく以下のような箇所だろう。

・『経済と社会』第2部(旧稿、1910-1914))第8章「政治ゲマインシャフト」(邦訳:濱島朗訳『権力と支配』、みすず書房、1954、第二部 第二章「政治共同體」 第三章「政治形象。「国民」」)(有斐閣版、講談社現代文庫版には収録されていない)
…「正当な物理的暴力の独占」と「合法性」という二つの点か国家が規定されている。同時に「死」への強制によって持ち込まれる「独特のパトス」、「生死をかけた共同の闘い」の共同の記憶、権力威信への理想的情熱といった、国家の感情的・価値的側面(「ネーション」につながる側面)が強調されている。

・『経済と社会』第1部(改定稿、1918-1920)第1章「社会学の根本概念」(邦訳:清水幾太郎訳『社会学の根本概念』、岩波文庫)
…社会学の基礎的概念を次々と類型化しながら、「団体」概念、「政治団体」概念を経て「国家」にたどり着くという、いかにもヴェーバーらしい類型化の「カズイスティーク」が展開される。反面旧稿で強調されていた「ネーション」的側面(感情的・価値的な面)がほとんど言及されず、正当な暴力行使の独占と合法性という「ザッハリッヒ」な面に議論が集中されている。晩年のヴェーバーにとって、ナショナリズムはどのようにとらえられていたのか、という疑問を投げかける。

・『職業としての政治』(1919)(邦訳:脇圭平訳『職業としての政治』(岩波文庫)
…出だしの部分で有名な「国家の社会学的定義」が現れる。国家の目的や活動内容ではなく手段によって定義するものである。


■日本のヴェーバー学者による優れたヴェーバーの国家概念の研究として、次のようなものがある。

・山崎純一「二つの国家概念」(創価平和研究19、1997)[ステファン・ブロイアーの議論を踏まえながら、ヴェーバーの国家概念を整理する。旧稿段階の国家概念と改定稿段階の国家概念を「二つの国家概念」として提示する。]

・雀部幸隆「ヴェーバー国家論の基底」(椙山女子学園大学研究論集、第37号(社会科学編)、2006)[日本を代表するヴェーバー研究者の詳細精緻な概念整理。旧稿段階の国家概念を扱っている。ヴェーバーの国家概念が、個人の自発的合意によってつくられたとみる社会契約論的国家概念から決別した点に、その意義を求めている。]

・牧野雅彦『国家学の再建――ヴェーバーとイェネリク』(名古屋大学出版会、2008)[ヴェーバーとイェネリクの関係を考察したもの]

・内藤葉子「マックス・ヴェーバーにおける国家観の変化 -暴力と無暴力の狭間- (一・二)」(『法学雑誌』第47巻、第1,2号、2000)[ヴェーバーの国家観を、権力主義的で排外主義的、人種主義にもつながる1890年代の第一期、「死」に裏付けられた国民的パトス」が刻印された1914年までの第二期、ザッハリッヒな国家の「社会学的定義」に到達する1915年以後の第三期に分け、その変容を分析し、その背景にトルストイ的「愛の無差別主義」(絶対的非暴力の思想)との対峙があることを指摘する。さらにそのような国家観の変化はまた、ヴェーバーが自身のナショナリズムを相対化していく過程でもあったと主張する。スリリングななヴェーバー論である。説得力もある。著者のヴェーバーへの「愛」が感じられる。この内容を、ヴェーバーの門外漢にもわかりやすいような書き方で膨らませ、ぜひ一冊の単著にしてもらたいものである。]

・佐野誠「マックス·ヴェーバーの講演『国家社会学の諸問題』(一九一七年)をめぐって —国家社会学と正当的支配の四類型」『法政史研究』59(2007年)
ヴェーバー晩年の「支配の諸類型」などで展開されている「カリスマの没支配的解釈替え」の概念を、ヴェーバーの四番目の正統的支配の類型に位置づけようという興味深い試み。


■ドイツでの最近のヴェーバー国家論研究として次のようなものがある。

・Stefan Breuer, Bürokratie und Charisma. Zur politischen Soziologie Max Webers (Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1994)[第1章が"Max Webers Staatssoziologie"、第2章が"Die Rationalisierung des Staaates"で、ヴェーバーの国家概念を直接扱っている。『社会学の根本概念』の議論から概念の分類系統図を取り出している第1章は重要。しかし「暴力の独占」と「合理化」とを国家概念における矛盾ととらえているところは、あまりに杓子定規という感じがしないではない。]

・Andreas Anter, Max Webers Theorie des modernen Staates: Herkunft, Struktur und Bedeutung (Duncker & Humblot, 1995)

・Stephan Egger, Herrschaft, Staat und Massendemokratie: Max Webers politische Moderne im Kontext des Werks (UVK, 2006)

・Andreas Anter / Stefan Breuer (Hrsg.), Max Webers Staatssoziologie. Positionen und Perspektiven (Nomos, 2007)

●Otto Hintze, Staat und Verfassung. Abhandlungen zur Allgemeinen Staatsgeschichte. Vandenhoeck & Ruprecht, 1962
オットー・ヒンツェは戦前のドイツの歴史学者(1861-1940)。ヴェーバーの影響もうけて、国家の社会史という研究領野を切り開いた人。1980年代のアメリカ社会学の国家論のなかで再評価されるようになった。この本は彼の国家研究を中心とした論文集。その重要な論点は、軍事組織の構築が西欧の国家形成において重要な役割を担ったこと、また身分制議会のような代表制度の伝統が国家の相違に関連しているということなどである。日本語訳はない。

Historical Essays of Otto Hintze (edited by Felix Gilbert). Oxford University Press, 1975
ヒンツェの重要な論文を英訳したもの。この中で「国家研究」として特に重要なものは国家形成の軍事的起源を論じた"Military Organization and the Organization of the State"(1906)、国家の中央機関(「省庁システム」)の形成を論じた"The Origins of the Modern Ministerial System: A Comparative Study"、近代国家形成における官僚制の重要性を論じた"Commissary and His Significance in General Administrative History: A Comparative Study"(1919)あたりだろう。百年以上も前のものだが、今でも十分に読む価値あり。彼の国家論は、1980年代アメリカ歴史社会学における「国家の復権」においても、大きなインスピレーションを与えている。また、彼の比較国家研究を貫く「官僚制を基軸とする大陸ヨーロッパ国家」対「議会を基軸とするイギリスの国家」という対比図式は、その後の研究に、明に暗に多大な影響を与えてきたが、1980年代のJohn Brewer以後のイギリス国家研究によって大幅に相対化されるようになっている。

●Joseph Schumpeter, Krise des Steuerstaats (1918)
著者は著名な経済学者。ここでは「財政社会学」を提唱し、ヨーロッパ(特にドイツ語圏)における「租税国家」の形成を論じ、その「限界」を指摘している。最近財政学の分野で「財政社会学」が見直されているが、社会学の分野ではほとんど知られていないのは残念である。「税」という制度をめぐる社会学があってもよい。。翻訳あり(『租税国家の危機』、岩波文庫)。

●Norbert Elias, Über den Prozeß der Zivilisation. Soziologenetische und psychogenetische Untersuchungen, 1939 [Suhrkamp Taschenbuch, 1997]
改めて紹介する必要のないほどの古典的名著。初版は1939年にバーゼルで出版された。テーマは「文明(化)Zivilisation」だが、西欧における国家形成とその作用に関する優れた歴史社会学的分析になっている。その主たるテーゼは、国王による暴力の使用と徴税権の独占が宮廷社会での礼儀や社交形式を可能にするような人々の情感の自己制御の習慣(これを「文明化」と呼ぶ)を発生させたというもの。また有力な国王による軍事と租税の独占をもたらしたのは、中世の騎士的封建領主の耐えざる闘争(戦争・私闘)とともに、貨幣経済の発展であったと論じられている。この議論は、のちのティリーやマンといった社会学者たちのものに相通ずるものがある。だがエリアスに特徴的なのは、国家形成と「文明化」の間に「人間同士の編み合わせGeflecht」「相互依存Interdependenz」という社会的な要因を介在させている点である。国王の暴力・租税の「私的独占」が「公的独占」へと転化させるものが、この社会的要因である。安定的な中央集権機関としての国家の発生は、このようして可能になったとされる。真剣な検討に値する議論である。邦訳は法政大学出版局から。読みやすい訳である。

Joseph R. Strayer, On the Medieval Origins of the Modern State. Princeton University Press, 1970.
アメリカの歴史学者による研究。1100年~1300年ころのイギリス、フランスにおいて近代国家の本質的構成要素が成立したという議論。のちの歴史社会学者(ティリーら)による議論よりも、国家形成の時期が300年くらい早い。おそらくそれは、ストレイヤーの国家概念が暴力行使の独占を通じた強制的統治の成立というヴェーバー的国家概念を採用していないことと無関係ではないであろう。ストレイヤーは①時空間の連続性、②恒常的制度、③国家への忠誠という三つを近代国家の構成要素としてあげている。そして国家の果たす法的役割に、とくに注目して議論しているように思われる。しかし軍事的・財政的な強制力の集中について、あまり具体的な分析がない点が、私としては不満をもつところだ。岩波新書から翻訳あり(邦題は『近代国家の起源』)。だが絶版。

●J.H.Shennan, The Origins of the Modern European State 1450-1725. Hutchinson University Library, 1974.
ほとんど忘れされれているが、西欧における国家形成に関する基本的な研究といえるだろう。1450年から1725年までの時代、支配者と被支配者をともに超えた非人格的・抽象的な国家概念が出現する経過を記述している。


【最近の研究】
≪総論、比較歴研究≫

●Charles Tilly, ed., The Formation of of National State, 1975
国家研究に新境地を開いた画期的研究。また、社会学における「近代化論」から「歴史社会学」への転換を先導した研究でもある。Samuel Finerによる軍事組織と国家形成の考察、Gabriel Ardantによる国家の財政政策の歴史分析、またRodolf Braunによる租税と国家形成の分析など、重要な論文が並んでいる。また、全体を通じて主張される大きなテーゼのひとつが「戦争への準備が大きな国家構築活動であった。この過程は少なくとも500年間、ほぼ継続し続けたのである」(p.74)というもので、後に「軍事財政モデル」と呼ばれる、現在の国家論の主要パラダイムとして受け入れられるようになる。編者のティリーは、国家論の他に社会運動論の分野(いわゆる「資源動員論」)でも重要な足跡を残したアメリカの歴史社会学者で、大変著名だが、なぜか日本ではあまり知られていない。「ナショナリズム研究」のページも参照)

●Gianfranco Poggi, The Development of the Modern State, Stanford Universty Press, 1978
ヨーロッパにおける国家発展を「封建的」「身分制的」「近代的」の三つの段階に分けて分析したもの。国家といえば圧倒的に政治学のテーマのように思われるが、社会学者であるポッジは、国家の社会関係的基礎に着目している。

●Bertrand Badie / Pierre Birnbaum, Sociologie de L'État. Éditions Grasset et Fasquelle, 1979
 「国家の社会学」と題された1979年(初版)刊の著作。バディとビルンボームはフランス人の社会学者。アメリカでのティリーらの研究とともに、社会学における「国家の復権」を代表する業績であることは間違いない。タイトルからして期待を抱かせる著作だが、残念ながらその分析には大きな不満がある。
 国家を近代化の普遍的産物ととらえる機能主義的社会学の見解を否定し、ヨーロッパの一地域(特にフランスやプロイセン)で形成された歴史的に固有の現象であると著者(バディー/ビルンボーム)は見る。マルクス主義の経済還元論や機能主義社会学の「分化」概念を批判するのはよい。が、著者自身の国家分析には色々と問題がある。著者は、国家形成の要因を、貨幣経済の浸透によってもたらされた中世の封建的支配構造の危機にもとめる。新たな変化に対応できない硬直的な封建領主に対し、「社会の自己の統合を回復」するため、自律した支配機構を備えた国家が台頭したとされる。だが、果たして国内での政治社会的「危機」だけで、官僚制化された国家の統治構造の発生が説明できるだろうか。そこには、「分裂した社会は統合を取り戻す」というシステム論的で機能主義的前提(著者自身、これを否定いているはずなのだが)がある。あるいは「封建制から資本主義へ」という変化を重視する説明には、マルクス主義の歴史発展論の亡霊に依然とりつかれているのであろうかという疑念も抱く。確かに結果的にルネサンス期以後のヨーロッパの国家は、封建時代の分散した統治構造に代わるものとなった。しかし「危機」がその転換を可能にしたというのは、歴史的因果関係に即したものとはいえない。その点、ティリーやマンなどによる軍事・財政的説明の方が(つまり戦争という対外的な要因で国家形成を説明する方法の方が)はるかに説得力がある。
 また著者は、自律化の最も進んだフランスの国家を基準に、各国家の違いを際立たせる議論を展開している。だが、その国家概念はあまりに狭すぎるのではないか。フランスやプロイセンとの対比で、著者はイギリスやアメリカでは「国家が発達していない」と結論づける。だが、これは歴史的事実から見て支持できない。先ず、イギリスで官僚制が未発達であったという点は、ジェフリー・ホームズやジョン・ブリュアーら1980年代の研究によって否定されている。例えば18世紀後半の段階で、人口一人当たりの官僚数においてイギリスはすでにプロイセンを凌いでいた。ブリュアーは、イギリスの官僚制が「18世紀ヨーロッパの他のどの政府機関よりもヴェーバーの官僚制の理念型に近かった」とまで述べているのである(Thomas Ertman, Birth of the Leviathan, pp.12-13)。また、マイケル・マンも明らかにしているように、18世紀後半の段階での国家歳出の対GDP比(推定)において、イギリスは他のヨーロッパ諸国を大きく引き離していた(だから戦争も可能だった)。それは議会制の方が官僚機構よりも効率的な租税徴収を可能にしていたからである。バディ/ビルンボームの問題は、国家を絶対主義的な官僚機構にのみ限定し、イギリスのような議会制的な国家(こちらの方が資源動員力が大きい)の仕組みに目を向けなかったところにある。また彼等は、国家の市民社会からの「自律」のみを国家の「発達」の指標にしているところがあるが、マンの「インフラストラクチャー的権力」概念が示すように、国家は市民社会との調整を通じてより大きな権力を獲得する。
 また、旧植民地における国家形成の失敗を例に挙げながら、ヨーロッパの一地域で発生した国家が第三世界の社会に移植される可能性が「ほとんどない」と明言している。国家がヨーロッパの一地域で発生した、歴史的でローカルな現象であるととらえる著者の議論からすれば、自然な流れかもしれないが、果たしてそうか。将来の国家の役割(この本は1970年代末に書かれたのだが)についても否定的である。これもやはり早急と言わざるを得ない。
 このような問題は、著者の国家概念が狭くて硬直的なところから来ていると思われる。いずれにせよ、このバディとビルンボームの書は、刊行後英米系の歴史学や社会学的国家研究に乗り越えられてしまったと考えてよいのではないか。したがってこの書には、現在読んだり参照したりすることの有効性を、私はほとんど感じていない(むしろ有害ですらある)。邦訳あり(日本経済評論社)。邦題は「国家の歴史社会学」。仏語を読んでいないので翻訳の正確さはよく確認できないが、すべての人名がフランス語発音で訳されているのは(「シャルル・ティリー」など)アタマをかしげるところである。

Eric A. Nordlinger, On the Autonomy of the Democratic State. Harvard University Press, 1981.
社会からの「国家の自律性」に焦点を当てた政治学的国家論。スッコチポルの国家論につながる視点がある。

●Peter Evans, Dietrich Rueschemayer, and Theda Skocpol, eds., Bringing the State Back In, Cambridge University Press, 1985
ずっと国家の問題を軽視してきたアメリカの社会学において「国家論の復権」をアピールした重要な著作。社会学が国家を真剣に論じるようになったのは、この著作が出された1985年ころからである。下のギデンズの著作と同年に出版されている点も興味深い。本書に収録されているCharles Tillyの"War Making and State Making as Organized Crime"は名論文として名高い。これだけでも読んでみる価値は十分にある。

●Anthony Giddens, The Nation-State and Violence, 1985
執筆当時ギデンズが企てていた「史的唯物論の再構成」の一環として書かれ、また1年前(1984)に書かれたThe Constitution of Societyで展開されている「構造化の理論」の諸概念が利用されているため、「ギデンズ理論」の用語法や発想法が随所に見られる。これが今読むと、どうしても「古臭く」感じられてしまうのは仕方がないことかもしれない。だが、伝統的国家→絶対主義国家→国民国家という国家の歴史的変容の段階が明確化され、またマルクスやヴェーバーといった社会学の古典のみならず、歴史学者や地理学者など幅広い文献が参照され、非常に広範な視野から国家の歴史が分析されている。特に国家と資本主義経済の関係(国家が資本主義経済の発展に果たす「授権的』役割を強調)、国家による情報管理の能力(官庁統計の意義についても言及)など、なかなか鋭い。ブレア政権にかかわったことで、近年の社会学者としてのギデンズは、アカデミズムの中ではかなりその「威信」を落としつつある。確かにここでも、細かい点ではかなり荒っぽく、分析があいまいなところも少なくないが、全体の構想力はなかなか見事なものである。ギデンズの数多くの本の中でも最もレベルの高いものの一つなのではないか。国家を社会学的に考察したい者には、必読の書といえる。しかも邦訳あり(やや読みにくい訳文だが)。
「ナショナリズム研究」のページも参照


●Michael Mann, The Sources of Social Power, volume I: A History of Power from the Beginning to A.D.1760. Cambridge University Press, 1986.
後半の12章から14章の部分で、中世から18世紀後半期までのヨーロッパの国家形成史をイギリスを中心に論じている。「戦争による財政危機が国家をつくる」というテーゼを歴史統計を用いて実証した画期的著作で、それは現在社会学の国家研究で定説としてほぼ定着しているといってよい。その学術的意義は強調して強調しすぎることはない。邦訳あり。

●John A. Hall (ed.), States in History, Blackwell, 1986)

●Philip Corrigan and Derek Sayer. The Great Arch: English State Formation as Cultural Revolution (Basil Blackwell, 1985)
ブルデューが講義録「国家について」のなかで,「国家の起源のモデル」としてエリアス,ティリーと共にあげている著作。1985年に出版され,すでに出版から35年以上経過している。しかし私は,ブルデューの講義録を読んで,初めてこの本の存在を知った。イギリスの国家形成史をあつかった歴史的研究だが、その理論的意義を重視してここに置いた。2人の著者は社会学者であり,社会学的な国家論としてもっと知られて良い本であろう。本書の理論的主張は,11世紀から19世紀までの長期にわたるイギリスの国家形成の歴史を題材にしながら,また,デュルケムやヴェーバーなどの「古典的」な社会学理論をに基づきながら,国家形成を「文化革命」(ブルデューの言葉を用いると「心的秩序」の変容,本のタイトル「大門」とはその比喩である)ととらえるもので,大変に興味深い。イギリス国家形成の歴史の細部にも深く踏み込んではいる。しかし,個々の歴史的事象から何を引き出し,それを理論的主張とどのように連関させようとしているのかが捉えにくい。ブルデューもこの本について,「理論的に混乱」し,「明快ではない」と指摘しているほどである。本の構成も「エピローグ」の後にかなり長い「追加考察(Afterthoight)」がついいているというものである。とはいえ,エリアスやティリーらの,暴力による「強制」の強化を国家形成の基軸に据える議論とは対照的な視点からの社会学的国家論として,もっと注目されるべき本であろう。

●Andrew Vincent, Theories of the State, Blackwell, 1987

●Margaret Levi, Of Rule and Revenue. University of California Press, 1988
合理的選択理論のアプローチから西欧における国家形成を論じた著作。国家形成を一種の社会契約としてとらえる。

●David Held, Political Theory and the Modern State: Essays on State, Power, and Democracy, Stanford University Press, 1989

●John A. Hall and G. John Ikenberry, The State. Princeton University Press. 1989
1980年代段階での国家論のサーヴェイを行ったもの。邦訳あり。

●Gianfranco Poggi, The State: Its Nature, Development and Prospects, Stanford University Press, 1990
ポッジは、国家を論じる貴重な社会学者である。そこにマキャペリ以来の国家論の伝統をもつイタリアの社会学者としての自負を感じ取ることができるかもしれない。上記1978年の著作の続編として書かれている。18世紀までの国家形成分析は前著の書き直しだが、20世紀の国家を論じたところに新鮮さがある。国家は20世紀になって大きく変容したが、この時代の国家を一般的な観点から論じているものが意外とすくないからである。とにかく、国家論を勉強するための基本的テキストとして最適である。

●Charles Tilly, Coercion, Capital, and European States, AD 990-1992, Blackwell, 1990
今やアメリカを代表する歴史社会学者のティリーのパースペクティブをよく表わしている著作。題名からわかるように、中世から現代に至るマクロな歴史発展を整理する枠組みを提示している。必読文献。(2012年度、大学院のゼミで扱います。)

●Brian Downing, The Military Revolution and Political Change. Princeton University Press. 1992
16世紀の「軍事革命」にヨーロッパ国家形成の要因を見出す議論。傭兵によって構成された常備軍の構築がもたらす財政負担が集権化された官僚制を発生させたとする議論はティリーとほぼ同様だが、ダウニングの議論の主眼は、プロイセン、フランス、イングランドなどのヨーロッパ諸国家の相違を説明するところにある。中世以来の議会制度が破壊されてしまうとプロイセンのような官僚制国家につながり、それが国家形成に抵抗して存続し続けるイングランドのような議会制が成立するという主張がなされている。

●Michael, Mann, The Sources of Social Power, volume II: The Rise of Classes and Nation-states, 1760-1914, Cambridge University Press, 1993.
「長い19世紀」における国民国家と諸階級の台頭を論じた記念碑的著作。第三章「国家の理論」で、社会科学における国家論のレビューがある。私はこの著作を中心にマンの国家論を考察したことがある(「国家の檻」)。また「ナショナリズム研究のページ」も参照()。

●Hendrik Spruyt, TheSovereign State and Its Competitors. Princeton NJ: Princeton UniversityPress, 1994.
ティリーらの軍事的アプローチ(「戦争が国家をつくった」という説)への反論。中世の封建体制が解体していくなか、都市国家や都市連合が淘汰され消滅し、主権国家が生き残り、その後の統治形態となっていくのは、戦争に強かったからではなく、その経済的優位性にあったと論じる。すなわち、主権国家は、度量衡の平準化・法的安定性の確立などにより、主権国家が国内の経済活動のための取引コストとフリーライドのリスクを削減したことで都市や商人たちをひきつけ、また自身もより効率的な資源動員が可能になったことが、その理由である。いかにも「オランダ的」な見方、というのは偏見だろうか。でも、「戦争に強い」だけが「能」ではないことを示した国家論として興味深い。

●John A. Hall ed.,, The State: Critical Concepts, 3 vols, Routledge. 1994
国家論の便利なアンソロジー。全三巻。ありがたいことにわが法政多摩図書館が所蔵している。

●Bruce D. Porter, War and the Rise of the State: The Military Foundations of Modern Politics. Free Press, 1994. 

戦争と国家形成の関係を明快に論じた好著。チャールズ・ティリーが“a winner -- lucid, graceful and well informed”と絶賛する推薦文を寄せている。もっと知られてよい。


●Peter Evans, Embedded Autonomy: States and Industrial Transformation. Princeton University Press, 1995.
国家の社会への介入が経済発展を促す「発展国家」と、収奪によって経済発展を阻害する「略奪国家」、その中間のケースの三つに分けて比較分析する。日本は「発展国家」の中に入るが、この書で中心になっているのは韓国と台湾。「略奪国家」はアフリカの諸国。

●Christopher Pierson, The Modern State, Routledge, 1996
最近の国家論の論点を明晰に整理している。全体として平易である点では国家論の入門書として最適である。

●Thomas Ertman, Birth of the Leviathan: Building States and Regimes in Medieval and Early Modern Europe, Cambridge University Press, 1997
中世から16世紀ころまでにおけるヨーロッパの国家形成を比較分析したもの。いくつものケースを歴史に沈潜し、しかもさまざまな要因をめぐって包括的に論じた分析は、解読するのに骨が折れる。だが、重要な指摘が多く、大変に勉強になる。

●Yves Déloye, Sociologie historique du politique. La Découverte, 1997
邦訳はイヴ・デロワ『国民国家 構築と正統化――政治的なものの歴史社会学のために』(中野裕二監訳、吉田書店、2,013年)。歴史社会学的なアプローチからの国民国家研究。ティリーやスコッチポルなどのアメリカの社会学者の文献も参照されている。なかなか読みごたえある。

●S .E .Finer, The History of Government from the Earliest Time, Vol.1: From Ancient Monarchies to the Han and Roman Empires, Vol.2: Intermediate Ages, Vol.3: Empires, Monarchies and the Modern State, Oxford University Press, 1997.
シュメールの都市国家から現代までの壮大な国家史。全三巻で総ページは1600を超える大著。第1章のConceptual Prologueで理論的なモデルのようなものを提示しているが、本論の中では必ずしもそれを活用しているわけではなく、各国家別の詳細な歴史が展開される。第1章ではティリーの議論を踏まえながら、戦争による「強制―徴発サイクル」について論じている。著者のファイナーはティリーが編集した1975年の論文集(上記)に、"State and Nation Building in Europe: The Role of the Military"を寄稿し、国家形成・国民形成における軍隊の役割についても考察している。

●Linda Weiss, The Myth of the Powerless State, Cornell University Press, 1998
グローバル化した資本主義経済が国家の役割を縮小させるというテーゼに真っ向から対決し、経済発展における国家の役割に注目したもの。日本をはじめとする東アジア諸国の例が詳細に論じられている。

●James C. Scott. Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed. Yale University Press, 1998.

国家の失敗を論じる。国家による計画が地域に根差した人間の知識を破壊してしまうからである。


●Walter C. Opello, Jr. and Stephen J. Rosow, The Nation-State and Global Order: A Historical Introduction to Contemporary Politics. Rienner, 1999

●George Steinmetz (ed.), State/Culture: State-Formation after the Cultural Turn. Cornell University Press, 1999
国家に対する文化的アプローチ。多彩な論文が並んでおり、かつビッグネームが多い。たとえば第一論文はピエール・ブルデューの貴重な英語論文"Rethinking the State Genesis and Structure of the Bureaucratic Field"(『実践の理性――行動の理論について』と題されたブルデューの邦訳本の中に所収されている)である。ブルデューはこの論文の中で、ティリーやエリアスを引用しつつ、軍事力や物質的資源の独占と並べて「象徴資本資本の原始的蓄積」に注目している。その他、本書には日本ではあまり知られていないが、社会学的な「新制度主義者」の指導的な学者John W. Meyerの論文も入っている。その他に、Timothy Mitchell、Bob Jessop、David Latin、Philip Gorskiらも寄稿。

●Martin van Creveld, The Rise and Decline of the State. Cambridge: Cambridge University Press, 1999.
イスラエルの戦争史学者による国家史。近代国家の発生を、支配者による具体的・人格的な統治から抽象的・非人格的な制度への転換としてとらえるヴェーバー的視点を、具体的な事例によって裏付けている。好著。

●Joel S. Migdal, State in Society: Studying How States and Societies Transform and Constitutute One Another. Cambridge: Cambridge University Press, 2001.
“State-in-society approach”が提唱されている。これは国家を強力な単一の実体としてとらえるのではなく、様々な社会集団やネットワーク(親族、部族、企業、政党、業界団体、個人的なパトロン・クライアント関係等)と対峙しながらその支配を存続させているととらえるアプローチである。ミグダルはこのアプローチを、非西洋地域を含めた幅広い比較研究に適用しようとしている。おそらく経験的な適合性は高いだろうが、「社会の中の国家」ということを強調するあまり、国家という組織の独自性(その独自な能力)を見失ってしまい、「なぜ、にもかかわらず国家が存在しているのか」という問いに十分な解答が与えられないという可能性もある。

●Jens Bartelson, The Critique of the State. Cambriddge University Press, 2001.
遅ればせながら購入。ポスト構造主義的視点からの国家の思想史的批判。岩波から翻訳あり(『国家論のクリティーク』)。私の好みではない。だが、なぜか日本では、こういう思想史的国家論に人気がある。

●Wolfgang Reinhard, Geschichte der Staatsgewalt: Eine vergleichende Verfassungsgeschichte Europas von den Anfängen bis zur Gegenwart. C.H.Beck, 2002 (3.Auflage).
ドイツの歴史学者による国家史研究。暴力を独占する権力機関としての側面に加え、その支配を正当化する法や政治理論、文化的シンボルの役割にまでも幅広く目配りした、バランスのよい記述を行っている。また、ヨーロッパの国家形成を君主国から権力国家へ(19世紀まで)、さらに民主国家、社会国家へと変容していく過程を考察している。特に出色なのは、中世から近代初期にかけての分析で、宮廷官房から中央権力機関の発展史、徴税制度と軍事の発展史は、その歴史的情報の豊富さにおいて他の追随を許さない。なお、初版は1999年だが、その後2度にわたり改定されたようだ。また、同じ出版社からのGeschichte des modernen Staates (2007)は、この本の要約版である。ポケットサイドで8ユーロ弱で手に入る。こちらを先に読み、より詳しく知りたい場合は、本書を当たるとよい。

●Yorram Barzel, A Theory of teh State: Economic Rights, Legal Rights, and the Scope of the State. Cambridge University Press, 2002)
合理的選択理論による国家理論。

●Miguel Angel Centeno, Blood and Debt: War and the Nation-State in Latin America (The Pennsylvenia State University Press, 2002)

戦争と国家形成に関するティリーやマンの議論をラテンアメリカのケースに適用し、西ヨーロッパとラテンアメリカの国民国家形成の違いを明らかにした興味深い研究。ティリーとマンが推薦文を寄せている。

●Philip S. Gorski, The Disciplinary Revolution: Calvinism and the Rise of teh State in Early Modern Europe, Chicago: University of Chicago Press, 2003.
気鋭の歴史社会学者による著作。近代国家形成にカルヴィニズムの果たした役割が論じられている。鋭利でわかりやすく無駄のない記述はほとんど芸術的域である。この議論に同意するにせよしないにせよ一読の価値あり。

●Graeme Gill, The Nature and Development of the Modern State. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2003.
古代から現代に至る国家の発展史を、経済政策を中心においた視点で論じたもの。

Atul Kohli, State-Directed Development: Political Power and Industrialization in the Global Periphery. Cambridge University Press, 2004

●Michel Foucault, Sécurité, territorie, population: Cours au Collége de France (1977-1978), ed. michel Senellart (Paris: Gallimard & Seuil, 2004)
 コレージュ・ド・フランスの講義録。「安全、領土、人口」というタイトルがついているが、このタイトルがあまり適切でなかったとフーコー自身も認めている。全体として、テーマは「統治性」といってよいだろう。『フーコー効果(Foucault Effect)』に「統治性」というタイトルで収録されている論文は、「1978年2月1日」の講義にあたる。
 『監獄の誕生』の時代には、国家という「大文字の権力」をとりあげることに批判的であったフーコーが、『性の歴史第1巻』を書いた後、国家の問題に取り組むようになった。「官房学」や「重商主義」の時代である17~18世紀における「国家理性」の発生を、「ポリス(内政)」という概念に着目しながら論じる。それは国富・国力の基盤である「人口」が統治の対象としていた。18世紀半ばに、国家の統治的理性は「ポリス」から「政治経済学」へと移っていく。これが「生の政治」と呼ばれるところだが、これはまた次の年度の講義のテーマとなる。
 フーコーが「内政」の発生の論拠として用いているのが、フォン・ユスティ、テュルケ・ド・マイエルヌ、ニコラス・ドラマールらのテキストだけなのだが、この時代、実際にこれらのテキストに表象された統治的理性が実際に行使されていたわけではない。フーコーが注目する国家の人口統計なども、早くて18世紀半ば、広くはフランス革命以後に整備されていったものである。国家の統治的理性について問うならば、このような統治の「実践」についても見ていかなければいけないと思うのだが、フーコーの分析はテキストレベルにとどまっている。フーコーの「統治性」論を読む場合、このようなテキスト上の「言説」と国家統治の「実践」とのギャップを押さえておくことが重要だと思う。(どうも私は、フーコーに対する「不信感」のようなものが拭い去れないので、ちょっとシニカルなコメントになってしまった。また、フーコーは「統治性」についても「生政治」についても、単著を出版することなく、『性の歴史』第2巻に移ってしまったわけだらか、この研究プロジェクトについては中途で「挫折」したとみなすのが自然なのではないのか。このフーコーの「知られざる国家論」をあまり重要視するのもいかがなものかと思う。もっとも私はフーコーの「統治性」論について勉強し始めたばかりなので、確たることは言えないのだが。いずれにせよ、フーコーの「統治性」論を、国家の社会学からどう位置付けるのかがこれからの課題である。)邦訳あり。

 
なお、「統治性」論のエッセンスに関しては、上であげた『フーコー効果』での「統治性」論文よりも、「全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて」という論文のほうが要領を得ている。これはフーコーが1979年10月10日、16日の2日に分けて、アメリカのスタンフォード大学のTanner Lecutures on Human Values(毎年有名な人文系学者を呼んでレクチャーを依頼している)において講演したものである。おそらく原文は英語だったのだろう。バックグラウンドの知識のないアメリカ人の聴衆向けに講演したものだからだろうか、フーコーの他の文章に比べて平明でわかりやす。邦訳は『フーコー・コレクション6 生政治・統治』(ちくま学芸文庫)に収録されている。この訳本の原文テキストはフランス語のようだ。

●Loïc Waquant (ed.), Pierre Bourdieu and Democratic Politics: The Mystery of Ministry. Polity Press, 2005.
 ブルデューの社会理論が民主主義政治や国家官僚制の分析にいかに有効であるかを示そうとした論文集。副題が韻を踏んでいてお洒落である。邦訳あり(ブルデューの輸入代替業者藤原書店より。水島和則訳。)所収されているのは編者ロイック・ウァカンの他フランス、アメリカの社会学者の論文の他、ブルデュー自身の単著論文も二つ収められている。私はフランス語があまりよくできないので、ブルデューの研究を大々的に参照することはないのだが、学生時代以来、ブルデューの分析概念や社会を見る「センス」には常に感服し、また彼の発想をどうにか生かすことはできないものかと考えてきた。その中でも、彼の「象徴闘争」(社会的世界を「正統」に理解する方法を押し付けあう認知上の闘争のこと)や象徴闘争が行われる場としての「界」の概念についてはこれまで何度か言及し、じっさいに活用しようとしてきた。この論文集におさめられているブルデューの「国王の家から国家理性へ」は、国家における象徴権力の蓄積と「官僚界」の出現について論じている。それは私的で特殊な資源から区別された「公共的」で「普遍的」な資源(それには給与や物資的特権といった物的な資源と、名誉や称号などの象徴的資源が含まれる)が自律した権力闘争の場となったことを意味している。軍事力や財源徴発能力の集中に注目したティリーやマンの議論を補完するものとして興味深い。
 ブルデューは晩年、金融のグローバル化に対抗し国民国家の「普遍的な機能」を擁護したが(『市場独裁主義批判』におさめられた「『グローバリゼーション』神話とヨーロッパ福祉国家」を参照せよ)、このようなブルデューの国家論と彼の「界」や「象徴権力」などを用いた分析がどう結びつくのかを知りたいところである。なお、この論文でチェコスロヴァキアの政治界を論じた論文を寄稿している「ジル・エイヤール」は「ギル・エイヤール」の誤りである。彼はUCLAで私の同期だった社会学者である。邦訳者が紹介しているような「ブルデューの共同研究者・弟子」ではない。イスラエル生まれで、おそらくフランス語はほとんどできないだろう。彼は一時UCバークレーに勤めていたから、おそらくその縁でヴァッカンの編集したこの論文集に寄稿することになったのだろう。知的にも人間的に大変に優秀な人間だった。すでに業績も多い。
 なお、最近のブルデューのコレージュ・ド・フランスでの講義録である『国家についてSur l'État』が出版され、これまであまり広く知られていなかったブルデューの国家論が明らかにされているという(2014年に英訳刊行。下記参照)。またこれを機会に、フランスではブルデューの国家論をめぐるシンポジウムも開かれ、George SteinmetzやJulia Adamsといったアメリカの歴史社会学者(上記のState/Cultureという本にかかわっている人たち)も参加したそうである(私はこのことを磯直樹氏からうかがった)。ブルデューの講義録は1989年から1992年までの講義録だから、本書に掲載されている「国王の家から国家理性へ」の論文(1997年発表)よりはだいぶ前の段階だが、ブルデューの国家論とはいかなるものだったのかがわかるようになったわけである。ぜひ目を通してみたいものである。
 なお、ブルデューの国家論のわかりやすい解説としてDavid L. Swartz, Symbolic Power, Politics, and Intellectuals. The Political Sociology of Pierre Bourdieu (The University of Press, 2013), Chapter 5, "Boudieu's Analysis of the State"がある。またSwartzは書評論文 "The Heavy hand of the state" (Contemporary Sociology, volume 48, number 1, 2019, pp.12-19)は要点がさらにコンパクトにまとめられていて参考になる。


●Michael Marinetto, Social Theory, the State and Modern Society: The State in Contemporary Social Thought. Open University Press, 2007
「ポスト構造主義」的アプローチからの「国家論」論。レヴューとしては面白いし役に立つが、、国家のリアリティを把握しきれているかというと疑問が残る。

●Erika Cudworth, Tim Hall, and John McGovern, The Modern State. Theories and Ideologies. Edinburgh University, 2007.
第1章で近代国家の発生が論じられた後、リベラリズム、パワーエリート論、マルクス主義から新右翼、グローバリズム論まで様々な観点からの国家理論が紹介される。国家論の学説史としてよくできている。

Bejamin Miller, States, Nations, and the Great Powers. The Sources of Regional War and Peace. Cambridge University Press, 2007.

「ステートとネーションのインバランス(state-to-nation inbalance)から戦争の発生を説明するという枠組みによる戦争研究。

●Richard Lachmann, States and Power. Campbridge: Polity, 2010.
エリート理論的アプローチで知られるアメリカの気鋭歴史社会学者による国家の歴史的考察。近代国家の発生、国家と市民citizens、国家と資本主義、国家と民主主義や市民権、社会保障、国家の衰退論など、現在の社会学的国家論の主要なテーマを扱ったあと、最後に「国家は経済発展を促進し、社会的扶助を提供し、国民を貪欲な国外投資家や環境の大変動の結果から守る能力を持つ、唯一の組織であるがゆえに、国家はよりいっそう強力なものになっていくだろう」と述べている。

Wenkai He, Paths toward the Modern Fiscal State: England, Japan, and China. Harvard University Press, 2013.
アメリカ社会学会比較歴史学セクションの2014年度「バリントン・ムーア賞」を受賞した本。社会学者も「租税国家」(シュンペーターの用語)について論じるようになった。

●John L. Campbell and John A. Hall, The World of States. Bloomsbury, 2015.
すでに2012年には出版が予定されていたが、だいぶ遅れて出版された。そのタイトル通り、グローバルな視点からの国家論。これまでの国家論にありがちな(私自身のものもその傾向を免れないが)ヨーロッパ中心主義からほぼ完全に脱却しているところがよい。全体は100ページちょっとの薄いもの。しかし国家の現在が見通せる。著者の一人John A. Hallは国家やナショナリズムを専門にする社会学者(カナダのマギル大学で教えている)で、、マイケル・マンやアーネスト・ゲルナーなどとの共著もある。John L. Campbellは「財政社会学」を専門としている貴重な社会学者で、著作はそれほど多くないがなかなか視点が鋭い。私は彼のものをよく読んでいる。わかりやすいものとしては、"The State and Fiscal Sociology"(Annuar Review of Sociology, 1993, vol.19)がある。

●Bartolomé Yun-Casalilla and Patrick O'Brien, eds., The Rise of Fiscal States: A Global History, 1500-1914. Cambridge University Press, 2015
財政史研究者の論文集。リチャード・ボニーらの学派の流れをくむ。ボニーも寄稿している。全体は、「財政国家」の形成が国ごとにまとめられていて、便利。

Pierre Bourdieu, On the State. Lectures at the Collége de France 1989-1992. Polity, 2015
ブルデュー晩年の講義録。待望の英訳! なんと480ページの大著になっている。 原著は2012年にフランスで出版されたSur l'État: Cours au Collège de France (1989-1992)。1990年1月から1991年12月までの約2年間にわたるコレージュ・ド・フランスでの講義録である。ブルデューの国家論の集大成かと期待して読んだが、結果としてはやや期待はずれ。というのは,すでに出版されている論文を超えるものではなかったからである。すでに"Genèse et structure du champ bureaucratique," Actes de la recherché en sciences socials 96-97 (1993)(やや短い英訳が"Rethinking the state: Genesis and Structure of the Bureaucratic Field"はG. .Steinmetz (ed.) State/Culture, 1993のなかに英訳),"De la Maison du roi à la raison d'État: Un modèle de la genèse du champ bureaucratique," Actes de la recherché en sciences socials, 118 (1997)の2つがブルデューの国家論として既に入手可能だが,この二つの論文の内容を大きく超えるものはほとんどないといえる。講義録の最後の方にネーションやナショナリズムについての簡単な記述があり、ブルデューがこの問題についてどう見ていたのかがわかるが、あまり深みのあるものではない。 ただ,「国家発生のモデル」として,ティリー,エリアスと並んでPhilip Corriigan and Derek Sayer, The Great Arch: English State Formation as Cultural Revolution (Blackwell, 1985)が挙げられている点が興味深い。ティリー,エリアス比較し,国家発生の「文化的」な次元が論じられているとして,ブルデューはこの著作に注目している。さらにブルデューは,イギリスのケースと日本のケースを類似したものと見ているてんは見逃せない。この点を含め,国家形成の「文化的」な次元に関しては,私自身が再考察してみたいと思っている。

Lars Bo Karpersen and Jeppe Strandsbjerg, Does War Make States? Investigations of Charles Tilly's Historical Sociology Cambridge University Press 2017
デンマークのコペンハーゲン・ビジネススクールで開かれた研究会の記録。「戦争が国家を作る」というティリーのテーゼを検証したもの。アートマン、スプライト、ゴースキらも参加している。

Miguel Centeno, Atul Kohli, andDeborah J. Yashar with Dinsha Mistree (eds.), States in the Developing World. Cambridge University Press, 2017.
「国家の能力」をキー概念にしながら、日欧米諸国の国家を比較分析したもの。

Kimberly J. Morgan and Ann Shola Orloff, eds. The Many Hands of the State: Theorizing Piolitical Authority and Social Control. Cambridge University Press, 2017.
国家論の新しい理論的展開を探った論文集。社会学者と政治学者が中心。

Steven Loyal, Boudieu's Theory of the State: A Critical Introduction. Palgrave, 2017.
ブルデューの国家論の丁寧な解説と批判的コメント。解説は1990-1991年の講義録『国家について』(上で紹介)と"Genèse et structure du champ bureaucratique,"(1993)と"De la Maison du roi à la raison d'État: Un modèle de la genèse du champ bureaucratique,"(1997)が主な素材として持ちているが、それに先立ってブルデューの基本的な理論概念についての説明もある。また、最後の章では批判的な考察も行われていて、ブルデューの国家論の内容と限界を認識するのに大変に参考になる。通常のブルデューらしくなく、彼の国家論決定論的に見えてしまう弱点も言及されている。私としては、分析枠組みの限界よりも、1997年の論文で論じられている歴史的考察の未完が最も気になるところで、この方向性でさらに議論を深め、一冊の本にしてほしかったと思っている。なお著者のLoyalは、Sinisa Malesevic(気鋭のナショナリズム研究者でもある)と一緒に社会学理論の概説書を2冊書いており、そちらも大変によい本になっている。



≪各論≫
●Vito Tanzi, Government versus Markets: The Changing Economic Role of State. Cambridge University Press, 2014.
題名通り、国家の経済に対する役割についての考察。

●Herbert Obinger, Klaus Petersen and Peter Starke, eds., Warfare and Welfare: Military Conflict and Welfare State Development in Western Countries. Oxford University, 2018.
戦争、特に20世紀の二つの世界大戦が福祉国家形成に果たした役割に関する比較研究。アメリカ合衆国、オーストラリア、西欧諸国、イスラエル、日本が含まれている。戦争が福祉国家形成に果たした役割については、第二次大戦後のティトマスのの議論以来あちこちで論じられているが、これだけ体系的な比較研究は初めて。貴重。

Dieter Gosewinkel, Struggles for Belonging: Citizenship in Europe 1900-2020. Oxford University Press, 2021
ドイツの国籍の歴史を分析した大著Einburgern und Ausschliessen (2001)を書いたゴゼヴィンケルの近著。ドイツ語で2016年に出版されたものの改訂・英訳版である。1900年以後、現在までの欧州の国籍(イギリス、フランス、ドイツ、ソ連、チェコスロヴァキア、ポーランドを中心とする)の比較研究。2001年の著作同様、読み応え十分の大作だが、著者の視点に若干の違和感も覚る部分がないわけではない。また、「ヨーロッパ化」を強調しすぎるのもづなのだろうか。、



≪事例研究≫
●Bartholomew H. Sparrow, From the Outside In: World War II and the American State. Princeton University Press. 1996
第二次大戦中のアメリカにおける国家形成。


《現代の国家》
●Linda Weiss, The Myth of the Powerless State. Cornell University Press. 1998

●Stephan Leibfried and Michael Zürn (eds.), Transformations of the State?. Cambridge University Press, 2005
グローバル経済が国家を「拘束」する面と「活性化」する面の双方から分析する。

●Achim Hurrelmann, Stephan Leibfried, Kerstin Marteus, and Peter Mayer (eds.), Transforming the Golden-Age Nation-State. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007
ドイツの政治学者による共同研究。ドイツ語版もある。「黄金時代の国民国家」をモデルにして国民国家の四つの機能を指摘し、グローバル化時代におけるその変化を検討するという方法をとる。今のところ、もっとも説得力のある「国民国家の変容」分析である。


●Linda Weiss, States in the Global Economy: Bringing the Domestic Institutions Back In. Cambridge University Press, 2003
グローバル経済が「国内制度」を媒介にして国家に「拘束的」な作用を及ぼしたり、「活性化」の作用を及ぼしたりするという枠組み(リンダ・ウェイスの論文に書かれている)にした諸論文。


●Wofgang Streeck, Gekaufte Zeit. Die verkaufte Krise des demokratischen Kapitalismus. Suhrkamp, 2015[=鈴木直訳『時間かせぎの資本主義 いつまで危機を先送りできるか』(みすず書房、2016年)]
これは改訂版で、初版は2013年。英訳もある。私は邦訳で読んだ。ヴォルフガンク・シュトレークはフランクフルト学派の系譜に属するドイツの社会学だが、資本主義と国家に関する「政治経済学的」な分析が特徴的である。自著『国家の社会学』のなかでも、彼のPolitics in the Age of Autsterity(2013)を大いに参考にさせてもらった。私にとっては「センスが合う」学者の一人である。『時間かせぎの資本主義』は、ドイツの「講壇社会主義」者アドルフ・ワグナー、「財政社会学」のゴルトシャイトやシュンペーターの議論を踏まえながら「租税国家⇒債務国家⇒財政再建国家」と戦後のケインズ主義国家の変容を特徴づけたり、現代の国家を「国家の民」と「市場の民」との競合という観点から把握するなど、なかなか教務深い。また、彼はいわゆる「左派」の人間でありながら、メルケルの脱原発政策や難民政策にも批判的な独特のスタンスを提起している。曰く「「これが私たちの国を変えるのです」という彼女の決断は、民主主義的プロセスや憲法的手続きを無視して行われている。メルケルが「国境は開放された」と宣言するとき、これに関する閣議決定もなければ、連邦議会での公式の宣言もなかったのである。(中略)彼女は時に議会政治のリーダーとしてではなく、国家緊急権をもった大統領であるかのようにして統治してきた」("Senario for a Wonderful Tomorrow", London Review of Books Vol.38, No.7,2016)。つまりメルケルが、民主的ないし法的な手続きを無視して政治決断を行ってきたこと(それは彼女自身の政党内部でより、左派系政党の支持や評価をとるつけることに成功してきた)について、シュトレークは問題視している。シュトレークはまた、『朝日新聞』でのインタビューにも答えていて(「グローバル化への反乱」2016年11月22日)、グローバル化の問題を「国家が機能していないことこそ問題です。市場経済がもたらす不確実性に生身の人間がさらされるとき、守ってくれるのは政府であり国家です」と述べ、その問題に気づかせられたという点でドナルド・トランプを評価するというアイロニカルなスタンスをとっている。

Dennis C. Spies, Immigration and Welfare State Entrenchment: Why the US Experience is not Reflected in Western Europe. Oxford University Press, 2018.
アメリカとヨーロッパ諸国を比較しながら、移民の増大と福祉国家との関係について分析する。



【アンソロジー】
The State: Critical Concepts, 3 vols. Edited by John A. Hall. Routledge, 1994.
3巻におよぶ国家概念をめぐる著作・論文の大部なアンソロジー。まあ、よくここまで集めたと感心させられる。ありがたいことに、法政大学の図書館が所蔵している。



【日本語で書かれたもの】
≪一般的論なもの≫
●坂本多加雄『国家学のすすめ』(ちくま新書、2001)
国家を、われわれの心の中に実在している「制度」と捉えようという主張。社会学者盛山和夫先生の「制度論」の影響がうかがえる。著者の坂本氏は「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーとしても知られる政治学者だが、本書の議論の大部分は学術的に洗練されており、あまりイデオロギー的な読み方をすべき本ではないと思う。

●櫻田淳『国家の役割とは何か』(筑摩書房、2004年)
「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」の三つから国家の役割をとらえる。

●萱野稔人『国家とはなにか』(以文社、2005)
国家を「フィクション」ととらえる構築主義を批判し、「暴力装置」という観点から国家を論じた書。著者は哲学者だが、国家を社会学的に議論する際にも絶対不可欠な視点を提示している。そもそもヴェーバーは、国家の「社会学的定義」として「暴力の正当的な行使を独占する人間共同体」と述べたのである。この視点はその後、ティリーやマンといった社会学者によって受け継がれた。

●佐藤優『国家論 ――日本社会をどう強化するか』(NHKブックス、2007)
 マルクスと宇野弘蔵の資本主義分析、ゲルナーのナショナリズム論、そして柄谷行人の国家論を交錯させた独自の「国家論」。著者は自分の議論を次のように要約する。「ネーションと国家の関係を検討してみた結果、国家が本来的にもっている暴力による収奪機能をネーションは互酬的であると擬制する機能をもっていることが、明らかになりました。国家が社会から過剰に収奪し、その一部を再分配する過程で、互酬的機能を部分的に果たしていることは確かです。しかし、そのことによって、国家、より正確に言うならば、国家を実態として担っている官僚が、一つの階級として、社会全体から収奪しているという基本的機能を見失ってはなりません。」(221頁)実に正鵠を得た分析である。
 私は『国家の罠』を読んで以来、、佐藤優氏の愛読者である。外交官としての豊富な実地経験、いわゆる「国策捜査」による逮捕起訴の経験、そして膨大な読書に裏付けられた豊富な知識を駆使して書かれた彼の一連の文章には、学者やジャーナリストの文章にはない骨太な迫力がある。それは、決して身内の人間にも、また読者にもおもねることなく直言する胆力から来るのだろうか。そして、そのバックボーンにはキリスト教神学がある。彼の国家論もキリスト教的視点で書かれている。曰く「国家は原理的に悪です。しかし、必要なものです。このことを踏まえて、悪や暴力性をできるだけ抑制するかたちでの国家を作ることが、絶対的な神の立場からキリスト教徒に要請されることになるわけです。」(282頁)また、「私の国家に対する感覚……というのは、国家と貨幣に対するイエスの対応に起源をもちます」(271頁)とも述べる。私自身は仏教徒なので、佐藤氏のキリスト教徒としての立場を共有しない。だが重要な点は、宗教という究極的な「外部」が、国家の「悪」と「必要性」とを同列に見極める、梃の支点を提供していることである。国家に過度に期待し、偶像化することなく、しかしまたまた国家を単に暴力装置やイデオロギー装置として拒絶することもなく、突き離し、相対化しつつも、共鳴し、深く付き合おうとする「自由」さは、そのような確固たる支点が用意されているところから来るのだろう。
 では、国家の暴力性をできる限り排除しつつ国家を構築するにはどうすればよいのか。結論として佐藤氏は、「社会を強くせよ」と主張する。「社会が国家に圧力をかけて、新自由主義によって恩恵をうけているごく一部の人たちを制御する。国家の暴力を背景にして、資本に対して再分配を強いさせる。ここに限定的な暴力の使用が出てくるわけです。・・・・・社会が弱体化すると、新自由主義的な地獄絵もなくならないし、国家が肥大化して戦争への道を勝手に進んでいくことも制御できなくなります。」(307頁)では、どう「社会を強化」するのか。それに対する解答として著者は、「「究極的なもの」への夢を持て」と主張する。本書ではこのようなロマンチックな提言しか提示されていない。だが、この大きな問いに簡単な解答はありえないだろう。この問いは、われわれ現代の社会学者に突きつけられている問いでもある。

●岩崎正洋・坪内淳編『国家の現在』(芦書房、2007年)
若手政治学者による論文集。テーマ的にはよくまとまっている。だが、個々の論文の内容にはインパクトに欠ける。

杉田敦編『連続討論 「国家」は、いま――福祉・市場・教育・暴力をめぐって』(岩波書店、2011)
討論形式の本。著名な若手論客が集められていて、題名通り国家論の「今」がわかる。タイムリーな本だと思い、学部のゼミで講読したが、少々難解すぎた感はある。

松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社、2021年)
 人類学的視点から国家について考察した本である。平明な文体で書かれ、簡潔ながら国家の本質に迫った名著である。「国家にたよらずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることがで」という「アナキズム」の視点から、デヴィッド・グレーバーやジェイムス・スコットの議論を参照しつつ、国家を在り方を批判的に抉り出している。「そもそも国という制度は国民全員の生活を支え、保証してくれる万能な仕組みではない」とし、国家とは無縁な「小さなスキマ」の持つ意味を可視化すること、「国家が機能するためには、現場で一人一人が問題を感じ取り、自分で考えて動ける自由が欠かせない」という視点から、「アナキズム」の可能性を探求するのが本書の立場である。その可能性の場として、人類学の古典マリノフスキの「クラ交換」にみられる「他者とともに生きるためにある経済」に注目し、そこから「コンヴィヴィアル(共生的実践)」なアナキズム、それによる「自由・平等・自治の空間」への展開について論じられている。
 大変に興味深く、また刺激的な考察である。私のような社会学者は「近代」を前提とし、国家に関しても西欧近代における発生から論じてしまうのだが、この著者のこの著者の人類学的な視点(著者のフィールドはエチオピアである)は、そのような近代主義的視点を超えた視野の広さを持っている。しかしながら、そのぶん議論がいかにも反近代主義的で、著者のいう「アナキズム」がどの程度の範囲で実現可能なのかがよくわからない部分もある。例えば近代国家との関係でいえば、国家なしの「アナキズム」による「社会」の構築を考えているのか、あるいは「アナキズム」による国家の抜本的改変を考えているのか、どちらとも取れる部分がある。例えば、台湾のオードリー・タンの「保守的アナキズム」においては、国家の「透明性」と「説明責任」の明確化が求められているようであり、必ずしも「国家なし」の状態が目指されているわけではないようにもみえる。著者によれば、「アナキズム」とは「目標」ではなく、「公共性」をつくりなおっしていくための「出発点」だということだから、そのあたりはオープンなのだろう。いずれにせよ、色々なことを考えさせてくれる本である。
 余談だが、私が学生時代(1990年代)にアメリカで接した人類学は、人類学をコロニアリズムに依存した学問という自省的観点からアプローチする「歴史人類学」がその先端であったように私は理解していた(Nicolas DirksやAnn Stolerなどを読んでいた)が、今の人類学はそれとは異なった展開をしているようである。


≪各論≫
●萱野稔人『カネと暴力の系譜学』(河出書房、2006年)
暴力、資本主義、国家について議論。ヤクザと国家に関する議論は特に面白い。

圷洋一『福祉国家』(法律文化社、2012年)
福祉国家の最近の理論をまとめた、ありそうでなかなかない本。大変にありがたい。勉強になった。著者は1971年生まれで、結構若手。

●諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』(新潮社、2013年)
題名から受ける印象とはやや違って、租税を中心とした国家論となっている。

●和田伸一郎『国家とインターネット』(講談社、2013年)
国家、資本主義、創造的生産という三つの「軸」という視点からインターネットをとらえる。インターネットをめぐる本格的な社会科学的分析としても興味深い。

大島通義『予算国家の〈危機〉――財政社会学から考える』(岩波書店、2013年)
前半はゴルトシャイトからシュンペータにいたる「財政社会学」の学史的系譜をたどりながら、ゴルトシャイトの「予算国家」の概念を拡充する試みを行っている。後半はその枠組みを用いた日本の「予算国家」分析である。財政という視点から国家論の枠組みを構想したものとして面白いが、後半は記述的過ぎて面白みに欠ける印象をもった。それは議論があまりに財政学的で、「社会学」としての面白みに欠けるからかもしれない。しかし、ゴルトシャイトについては、大変勉強になった。

中野剛志『富国と強兵 地政経済学』(東洋経済新報社、2016年)
「地政経済学」という名で国家と経済の関係性について歴史的かつ理論的に俯瞰した大著。『国力論』」以来、中野氏の学術的な能力の高さに関しては以前から敬服してはいたが、これはすごい本である。私があまり強くない経済学(それも主流の近代経済学とは一線を画したもの)の知見に加え、チャールズ・ティリーやマイケル・マンなどの歴史社会学者の研究を踏まえ、大胆な枠組みを提示している。最初の方で論じられている国家と貨幣の関係についても、ヴェーバーやクナップの学説が紹介されるなど、興味深い。

重田園江『フーコーの風向き 近代国家の系譜学』(青土社、2020年)
フーコー研究者として著名な重田氏の論文集。「近代国家の系譜学」という副題がつけられているが、必ずしも「系譜」が丁寧にたどられているわけでもない。重田氏は1970年代後半のフーコーの権力論、特に1978‐79年の「統治性」の議論を最初に本格的に日本で知らしめた研究者で、その最初の論文(『思想』1996年)がここに掲載されている。だが、フーコーの「統治性」に関する氏の研究については、『統治の抗争史』(勁草書房、2018年)の方を読むべきであろう。重田氏の文章はいつも明快で、フーコーを理解するためにはとても役に立つ。フーコーの国家論は、17~18世紀西欧に発生する「統治性」の概念と、その後の統治と自由主義の関係性に関して極めて重要な指摘をしている。だが、その側面だけに焦点を当ててルーペで拡大して見せるようなフーコーの議論の進め方は、私にはやや一面的にも思える。また、18~19世紀の「ポリティカルエコノミー」における経済自由主義と、20世紀戦間期ドイツの「オルド資本主義」、さらには20世紀後半の新自由主義を「統治性」の概念で包括的にとらえる彼の議論は、意外性があっておもしくはあるが、歴史学的にはやや強引ではないだろうか。私からすると、フーコーが論じている国家の「統治」に関しては、ティリーの「民政化」やマンの「インフラストラクチャー的権力」の概念を用いた方が、より実証的な研究が可能なように思える。


※マルクス主義国家論

 マルクス主義的アプローチは、国家を支配階級の政治経済的支配のための「道具」とみなすのか、生産様式や階級搾取を維持・再生産する 機能から説明するのかにかかわらず、経済的要因を「最終審」とする点が一般的な特徴である。と同時に、グラムシの影響を受けたアプローチが、特にフランスのニコス・プーランツァスやルイ・アルチュセールが「国家の相対的自律性」という概念に拠りながらそのような「経済決定論」からの脱却を試みたりもしている。そのディレンマがマルクス主義国家論を面白くしているのは確かだが、またそのディレンマ自身が限界でもあると思われる。
 私自身はマルクス主義にコミットしていないので、「相対的自律性」の問題にはそれほど関心がない。というよりも、国家が経済から「相対的に自律」していることは、最初から前提においてしまっているようなところがある。(国家という「力」の制度を、「資本の論理」のみから導き出そうとするマルクス主義の基本的スタンスには、やはり限界を感じるのである。)そういう前提から出発すると、マルクス主義論の面白さは「相対的に自律」しているにもかかわらず、近代国家はどのように資本主義経済と(「資本の論理」と)結びついているのかを明らかにしているところにある。特にそれは、国家財政の仕組みや経済政策の中にあらわれてくる問題である。資本主義経済と国家とが分かちがたく結びついている限り、経済のグローバル化によって国家の役割が終焉するという大前研一的グローバル化論は成り立たないことになる。(おそらくこの問題をもっとも鋭く指摘しているのは、ヨアヒム・ヒルシュであろう。)
 マルクス主義国家論は日本ではかなり人気が高い。主要著作のほとんどが翻訳されているところからも、それがうかがえる。また、1970年代から80年代にかけて数多くのマルクス主義国家論が日本人の手によって書かれている。例えば、大藪龍介、滝村隆一、津田道夫、柴田高好、鎌倉孝雄などの著作がある。これらのほとんどを私は読んでいないが、いつかじっくりと読んでみたいものである。
 日本の近代史を眺めてみれば誰にでも明らかなことだろうとおもうが、日本の近代史にとって「国家」が果たしてきた役割はとりわけ重要である。またそのことは、日本が日本以外の非西洋諸地域における近現代史を読み解く一つの「モデル」を提供することになるのかもしれない。その意味で日本には、「国家」を論じることに関して、歴史的および戦略的な有利性があると思う。日本のマルクス主義国家論は、それを反映している貴重な学問的蓄積である。

[第二次大戦後西側マルクス主義]
●Nicos Pulantzas, Pouvoir politique et classes soziales de l'éta capitaliste (François Maspero, 1968)
戦後マルクス主義国家論復活を示す記念碑的著作・・・、なのだが正直なところ私には、この本のどこがそれほど素晴らしかったのかがよくわからない。とにかく難解。苦労して読んでも、得るもの少なしといった感じ。だが、言っていることはとても単純なことである気も、しないではない。資本主義の国家が階級構造から「相対的に自律している」という議論は、今見ると、あまりに当たり前の主張である。邦訳は田口富久治・山岸紘一訳で『資本主義国家の構造: 政治権力と社会構造』(未来社)。初版は1978年だが、私の持っているものは1994年第6版。この難解な本が第6版まで行くのか、とびっくりである。それにしても、田口氏はこの時代のマルクス主義国家論の紹介とともに翻訳をほとんど一手に引き受けていたようだ。フランス語の原文は確認していないが、たぶんしっかりとした翻訳なのだろう。

Ralph Miliband, The State in Capitalist Society: An Analysis of the Western System of Power (Weidenfeld and Nicolson, 1969)
ミリバンドはイギリスの学者。プーランツァスとこのミリバンドとの『ニュー・レフト・レビュー』での論争は、この時代のマルクス主義国家論のピークを示すものである。ミリバンドの著作はプーランツァスのものと比べて、議論が具体的ではるかにわかりやすい。プーランツァスからみると、この具体的・経験的議論が批判の対象になるようなのだが・・・。なかなか厄介な論争である。やはり田口富久治氏による翻訳あり(未来社)。

Louis Althusser, "Idéologie et appareilis idéologiques d'État" La pensée, nº.151 (1970)
 フランスのマルクス主義学者ルイ・アルチュセールの有名な著作。邦題は「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(最新訳では「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」)。原著は1970年に雑誌『パンセ』に掲載されああと、1976年の論文集Positions (Éditions sociales, 1976)に再録された。さらに1995年、未公刊の草稿を編集したSur la reproduction[再生産について](PUF, 1995)の最後にも収録されている。この本の序文を書いたジャック・ビデによると、「国家と国家のイデオロギー諸装置」論文はアルチュセールの草稿から抜粋したものだそうだ。日本では西川長夫が原著公刊の2年後にいち早く『思想』1972年8・9月号で翻訳を発表している。この西川の邦訳は『国家とイデオロギー』(福村出版、1975)に再録されている。その後1993年に柳内隆による新訳が『アルチュセールの「イデオロギー」論』(三交社)として出版された(この本は山本哲士による解説が付されている。"pratiques"が「プラチック」と訳されていることで知られている。西川訳では「実践」である。)。さらにその後、、前出のSur la reproduction が『再生産について―イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』(平凡社、2005)』として西川長夫他訳で出された際、この論文も同じく西川訳により「国家と国家のイデオロギー諸装置」というタイトルで訳出されている。この新訳本はその後平凡社ライブラリー(上下二巻)として出されている。このようにさまざまな翻訳が出ているところからも、日本における本論文の人気の高さがうかがえる。
 私はこの論文の西川長夫旧訳を、東大の教養学部時代のゼミで当時「ニューアカ」の旗手であった浅田彰の「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」(『思想、1980)を参考にしながら読んだ記憶がある。浅田彰の手にかかると、アルチュセールのこの論文がこうも鮮やかに解釈されるのかと感心したものだが、果たして浅田の解釈がどれほど妥当なものだったのかどうかはよくわからない。当時読んだ私のアルチュセールに対する率直な印象は、「何と宿命論的な出口のない議論なのか」というものだった。「国家のイデオロギー(諸)装置」=AIEには学校や教会、組合やマスメディア、政党など市民社会のあらゆる集団が含まれており、それが資本主義社会の生産諸関係を再生産すべく個々人に呼びかけ、「主体」をつくりだしているというのだ。だが、資本主義社会が我々が逃れることのできない「宿命」であるとすれば、アルチュセールの分析も案外正しかったというべきかもしれない。ただしアルチュセールは革命を目指す共産主義者だった。このような宿命論的な社会の構図が、彼の共産主義者として政治的信条とどう関係していたのか。
 最近、授業で国家論について教える機会があるので、あらためて新訳を読んでみた。従来私が抱いていた印象は大きくは変わらなかった。アルチュセールの国家論は、国家論プロパーとしてみる限り、あまりに決定論的・目的論的といわなければならない。たとえば「国家のあらゆるイデオロギー装置は、いかなるものであれ、すべて同じ結果、生産諸関係の再生産、すなわち資本主義的な搾取の諸関係の再生産を目指す」(202頁)・・・? この命題、いったいどのように検証するのだろうか。そもそも私には、アルチュセールの国家論はあまりに単純すぎ、また歴史的検証も弱いので、少しも面白いとは思わない。、もっとも、『再生産について』全体はまだ読んでいないので、最終的な判断は留保しておこう。

James O'Connor, The Fiscal Crisis of the State (St. Martin's Press, 1973)
オコンナーはアメリカの学者。「戦争-福祉国家」という枠組みで、「過剰資本」が国家による軍事や宇宙開発に向けられ、また「過剰労働」が社会福祉支出に向けられるが、それが結果的に国家の財政危機をもたらすという議論。アメリカ合衆国の財政危機が分析の俎上に乗せらている。個人的には、この時代のマルクス主義国家論の中ではもっとも面白い。また、いわゆる「新自由主義」が台頭する以前の、ケインズ主義的福祉国家の時代のアメリカの様子がよくわかる。今でも熟読に値すると思う。勉強にもなる。ただ、「国家の自律性」という問題に関しては、やはりマルクス主義の枠組みを出ていないところに、個人的には不満も感じる。国家の形成やその機能は、単に資本主義の発展(独占資本の発展)によってのみ説明されるものではないと思う。邦訳あり(池尾惇・横尾邦夫監訳、御茶ノ水書房。割と読みやすい訳だとともう。横に原著のページ数が付されている。)。

Claus Offe, Strukturprobleme des kapitalistischen Staates Aufsätze zur politischen Soziologie (Suhrkamp, 1972)


●Nicos Poulantzas, L'État, le Bouvoir, le Socialisme (P.U.F., 1978)
1979年突然の自殺の前年に書かれたプーランツァス国家論の到達点。相変わらず難解な文章炸裂である。「国家は本質的な実体として見なされるべきではなく、関係として、、より正確にいえば、諸階級および階級的諸分派間の力関係の物質的凝縮と見なされるべきである」というのが、彼の国家観の要点であろう。専門筋の学者は、これをもってプーランツァスが単純な階級還元論を脱却したとみなすようだが、果たして「物質的凝縮」とは何を意味するのか、私にはよくわからない。ちなみに「凝縮」とは英語で“condensation”である。邦訳あり(田中正人・柳内隆訳、ユニテ)。おそらくよい訳なのだろう。(もっとも私は英訳で読んでいる。こちらのほうが日本語よりもまだ理解が容易であるように思える。)なお、邦訳につけられた最後の解説は、短いがわかりやす。。

●Perry Anderson, Lineages of teh Absolutist State, New Left Books, 1974 [Verso, 1979]
ヨーロッパの「絶対主義国家」をスペイン、イングランド、フランスなどの「西」と、プロイセン、ロシアなどの「東」に分け、それぞれにおいて絶対主義国家の形成要因を分析したもの。「西」の場合、その起源は人口過剰や商業経済の発展からくる「封建主義の危機」にあり、農民反乱と商人の台頭に対抗して、貴族が国王と連合したところから絶対主義国家が発生したという議論を展開している。国家の基礎として階級構造・階級関係を置くところがいかにもマルクス主義的である。他方「「東」の場合、人口は散漫で都市の発達もなかったが、西欧絶対主義国家に対抗するため強力な軍事国家を構築し、資源徴発のために農民を「農奴」の地位に置いたとする。興味深い議論ではあるが、国家を「支配階級の支配の道具」というマルクス主義的前提を継承し、国家の能力そのものをブラックボックスにしてしまうところは、国家論的観点からみて不満の残るところである。なお、著者ペリー・アンダーソンは有名なベネディクト・アンダーソンの弟。UCLAの歴史学部と社会学部でも教えており、私も留学時代にお世話になったことがある。

●Bob Jessop, The Capitalist State: Marzist Theoriers and Methods. Oxford: Martin Robertson, 1982
イギリスのマルクス主義国家論の代表的研究者によるもの。マルクス、エンゲルス以来のマルクス主義国家論の概観。著者自身は「関係的アプローチ」を提唱し、グラムシに好意的である。邦訳あり。

●Martin Carnoy, The State and Political Theory. Princeton: Princeton University Press, 1984.
著者はアメリカの研究者。上記ジェソップのものよりも概説的性格が強いように思われる。だが、いずれにしてもマルクス主義国家論は用語法が難しいので読むのに難儀をする。邦訳あり。

Claus Offe (edited by John Keane), Contradictions of the Welfare State (The MIT Press, 1984)
1973年から1983年にかけて書かれたオッフェの福祉国家に関する論文をジョン・キーンが翻訳・編集したもの。最終章にはデヴィッド・ヘルド、キーン、オッフェの鼎談も掲載されている。オッフェの福祉国家論はハーバーマスにも影響を与えたもので、今でも熟読に値する重要なもの。そのエッセンスがわかる。本書に収録されている"Some Contradictions of the Modern Welfare State(1981)"と"Competitive Party Democracy and the Keynsian Welfare State"1983)は邦訳論文集『後期資本制社会システム:資本制的民主制の諸制度』(寿福真美編訳)にも邦訳の上、収録されている。特に後者の方はいい論文だと思う。


[最近のマルクス主義国家論]
Bob Jessop, State Theory: Placing the Capitalist State in Its Place, Polity 1990

BrunoThéret, Régimes Économiques de L'ordre politique. Presses Universitaires de France, 1992.
レギュラシオン理論を用いた国家論。エリアスの指摘を踏まえながら、軍事・財政機能に着目した「国家の有機的循環」モデルはなかなか興味深いし、その他にもいくつか重要な指摘はあるが、なんとも図式主義的なところに難点を感じる。部分訳が『租税国家のレギュラシオン』というタイトルで世界書院から出されている(私はこの翻訳を読んだだけである。)

Joachim Hirsch, Der nationale Wettbewerbstaat, Edition ID-Archiv, 1995
著者のヨアヒム・ヒルシュは1970年に「国家導出論」というマルクス主義国家論のアプローチを主導していた人である。そのころから一貫して国家論を追求し、現在はグローバル化の中の国家の変容について興味深い論考を行っている。この書では「安全保障国家」から「国民的競争国家」への変容が論じられ、「競争国家を超える民主主義」が模索されている。翻訳あり(ミネルヴァ書房)。

●Joachim Hirsch, Vom Sicherheitsstaat zum nationalen Wetbewerbstaat. ID-Verlag, 1998
1994年の『国民的競争国家』と同時期に書かれ、内容的にもほぼ重なっている論文集。

●Bob Jessop, The Future of the Capitalist State. Polity, 2003

●Joachim Hirsch, Materialistische Staatstheorie, VSA-Verlag, 2006

『国民的競争国家』(1994)を加筆修正したような本になってはいる。しかし、内容的にはかなりの深化がみられる。前著に比べると国家に対する制度論的視点が強まり、歴史的な考察も加えられ、国家をより「客観的」に把握できるようになっている。また、前著で「安全保障国家から国民的競争国家へ」とされた変化の図式は「安全保障国家から国際化した競争国家へ」と書き換えられている。タイトルは「唯物論的国家理論」だが、単に従来のマルクス主義国家論の総括というものではなく、ヒルシュの新たな理論展開が感じられる。また、随所で論じられるグローバル化論批判、ネグリ/ハートの『帝国』』批判は、至極的を得たもののように思われる。(⇒「ナショナリズム研究文献リスト」も参照)。

●Bob Jessop. State Power. Polity, 2008


【日本語】
田口富久治『マルクス主義国家論の新展開』(青木書店、1979)
1970年代の欧米におけるマルクス主義国家論の展開をわかりやすく説明したもの。当時どういうことが議論されていたのかがわかる。

加藤哲郎『国家論のルネサンス』(青木書店、1986)
非常に広範囲にわたる文献がリファーされているが、果たしてマルクス主義国家理論が、国家のどのような面を明らかにしてきたのか、その実質的内容があまり説明されていない。マルクス主義国家論を勉強するには、上記の田口の著作家、、カーノイの著作の方がわかりやすいであろう。

廣松渉『唯物史観と国家論』(講談社学術文庫、1989)
マルクスとエンゲルスの国家論を軸に国家を論じる。特に廣松自身も編纂を試みた『ドイツ・イデオロギー』における国家概念を解明した第1章は読みごたえがある。さすが大哲学者だけあり、このようなテキスト解釈的論文でも議論に深みがある。

野上浩輔『最後のマルクス主義国家論――ブルジョア国家の歴史的構造』(三月書房、2003年)
題名にひかれて購入。著者は60年安保の時代に学生運動に関わり大学を退学、その後35年にわたり「京浜工業地帯の真ん中にある大自動車工場」に勤務し、労働者の運動を続けた筋金入りのマルクス主義者である。「国家の止揚を対象とすること、これが我々の価値観として国家論の出発である」という明確な立場表明は、現在では貴重に思える。「最後のマルクス主義国家論」というタイトル(著者が最後にたどり着いた国家論、という意味だろう)に、この著者の思い入れを感じる。「国家論にディレッタトとして取り組む、それはそれなりに才能のある人にとっては面白いかもしれない。そこからあるいは華麗な国家の定義と国家学の体系が打ち出されてくるかもしれない。だがそのような国家論には何か〈重さ〉のようなものが感じられない」という言葉には、なかなか「重い」ものがある。

●鎌倉孝夫『帝国主義支配を平和だという倒錯 市自由主義の破綻と国家の危機』(社会評論社、2015年)
佐藤優氏と共著もあるマルクス主義学者の近著。新自由主義政策と国家との関係を論じながら、資本主義がグローバル化しても国家はなくせないこと、資本主義は依然として国家に依存し続けていることを明らかにする。論旨は極めて明快。

隅田聡一郎『国家に抗するマルクス 「政治の他律性」について』(堀之内出版、2023年)
マルクス主義国家論の可能性を論じたなかなか刺激的な著作。マルクス主義国家論の様々な学説や論争を(あまり詳しくはないが)紹介していて、この分野に暗い私には大変に勉強になった。特にパシュカーニスやゲルステンベルガー、「国家導出論争」に関連する議論は興味深い。著者は、国家を資本家階級の支配の「道具」と捉える、古典的マルクス主義の道具主義的国家論を批判しつつ、同時に、国家を独自の制度ととらえる歴史社会学的国家論の視点も拒否している。それに対し著者は、国家を「資本主義の政治的形態」として捉えるという「導出論争」に依拠する立場を繰り返し強調する。だが私には、その意味が抽象的すぎて最後までよく理解することができなかった。そもそも「形態」とは何のか。努力をして、資本主義における等価交換関係の論理が、一般化された法を媒介とした国家の統治と結びついているということなのかと私は理解したが、仮にそうであるとすると、これが国家の分析(例えば「社会国家」の分析)にどう生かされているのであろうか。また、それだけで国家を分析するのに十分なのだろうか。そもそも、全体を通じて「国家」という概念がきちんと定義されていないことが問題である。さらに言えば、国家の制度的「自律性」を認めることに対し、なぜ著者がかくも拒絶的であるのかもよくわからない。社会学者として言わせてもらうと、家族でも企業組織でも、分析の対象とする現象自体のある程度の「自律性」を認めないと、そもそも研究が成り立たないのではなかろうか。とはいえ、マルクス主義国家論に新しい息を吹き込もうとする意気込みは評価できる。



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